アメリカの歴史No05「大航海時代、スペインとポルトガルによる世界分割」

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ポルトガルとスペインによる世界分割

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「15世紀頃の北アメリカ先住民の文化と生活」(アメリカの歴史_No04) 

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【スペイン・ポルトガルの発見・征服事業】
14世紀~15世紀、ヨーロッパでは天文学、地理学が発達し、羅針盤が実用化され、多くの船乗りがより遠くの海まで活動範囲を広げ、15世紀後半から大航海時代へとなって行った。

 

大航海時代の先駆けとしてトップ争いをしていたのがポルトガル王国(以下本文ではポルトガルと呼ぶ)とカスティーリャ王国アラゴン王国連合王国であった。

 

イスラム勢力からのイベリア半島奪還戦争(国土回復運動=レコンキスタ)において勝利したポルトガル王国はさらなる領土拡大を求め、海洋に進出、北アフリカの島々を征服、さらにアジア向けて探検航海を始めていた。

 

一方、カスティリャアラゴン連合王国イベリア半島最後のイスラム拠点グラナダ王国攻略に手間取り、漸く、1492年1月に奪還した。これにより、カスティリャアラゴン連合王国イスパニア王国(以下本文ではスペインと呼ぶ)(*1)として統一できたが、このレコンキスタの遅れが海洋進出においてもポルトガルの後塵を拝することになった。
(*1)正確にはまだ、スペインという統一国家は無く、カスティーリャ王国アラゴン王国連合王国またはイスパニア王国である。スペインという統一国家になるのは18世紀初頭である。

 

1492年10月コロンブスが第1回航海で西インド諸島キューバを発見後、1493年3月スペインへの帰途、天候不順でポルトガルリスボンに避難を余儀なくされた。このとき、ポルトガル国王ジョアン2世はアルカソバス条約(*2)により、アゾレス・ヴェルデ岬諸島の南は自国の領域である、従って、発見地は自国に領有権であると主張した。
(*2)アルカソバス条約とは1479年、ポルトガルアゾレス諸島マデイラ諸島、ヴェルデ岬諸島を領有し、スペインはカナリア諸島を領有すると定めた条約である。

 

ポルトガルの主張に対し、スペインは異議を唱え、対立したが1494年、トルデシリャス条約(*3)を結び、決着に至った。
(*3)トルデシリャス条約とは1494年、ヴェルデ岬諸島の西370レグア(教皇子午線、1レグア=5.5km、 2035km)地点を通る南北に引かれた「観念上の分割線」を境界として東側の領域はポルトガル、西側の領域はスペインが管轄すると定めた条約である。その結果、ポルトガルは当時発見されていなかった南アメリカのブラジルの半分の土地を計らずも、手に入れることとなった。

 

トルデシリャス条約締結後、領土問題が生じなかったが16世紀初めになるとポルトガル・スペインの発見・征服事業が世界の裏側のアジアまで拡大し、香辛料の一大産地だったインドネシアモルッカ諸島の帰属を巡り、衝突が起った。そこで、1529年、モルッカ諸島の東側の教皇子午線を境界とするサラゴサ条約を締結した。

 

16世紀当時のポルトガルとスペインは世界(非キリスト教国)を2分割し、自国領土と宣言しても、他国に異議を唱えさせないほどの力を持った2大海洋先進国であった。

 

南アメリカへの侵入】
1499年、イタリアの探検家にして地理学者のアメリゴ・ヴェスプッチはスペイン王室の命で後のブラジルと呼ばれる地域を探検した。1502年アメリゴはこの大陸とコロンブスが発見した大陸と繋がっているとは全く知らず、新大陸であることをスペイン王室に報告するとその情報は瞬く間にヨーロッパ各地に伝わった。1507年、南ドイツの地理学者により、アメリゴにちなみアメリカと名付けられた。

 

1513年バスコ・ヌーニェス・デ・バルボアのパナマ地峡を横断し、後に太平洋と呼ばれるようになる「南の海」に到達し、南アメリカ大陸北アメリカ大陸は陸続きであることが確認された。

 

ユカタン半島グアテマラで興ったマヤ文明は10世紀後最高潮に達したが、その後マヤ帝国は衰退していき、12世紀にはトルテカ族がマヤ族の大部分を征服・文化を吸収し、トルテカ帝国を築いた。そのトルテカ帝国も次第に衰退していき、やがて、滅亡した。

 

そして、1325年頃、新たな帝国の主、アステカ族がメキシコシティに入った時、この地で繁栄を極めていたトルテカ帝国は既に滅亡しており、痕跡しかなかった。

 

アステカ文明は200年近く続いていた1519年、スペイン領キューバ総督はメキシコ海岸に交易植民地を建設しようと32歳エルナンド・コルテスに命じ500名11隻から成る探検隊を送り込んだ。コルテスは圧倒的な兵器(火縄銃)と装備(甲冑・馬)でアステカ帝国の皇帝モンテスマ二世軍をテオティワカン平原で撃破、メキシコを征服した。こうして、1521年アステカ文明はヨーロッパの夷狄によって滅亡した。

 

1531年スペイン帝国フランシスコ・ピサロインカ帝国の征服を命じた。ピサロはペルーに上陸、歓迎してくれたインカ帝国の皇帝アタワルパをだまして殺害、インカ文明を滅亡に追い込んだ。略奪したインカの金銀・財宝そしてインカの地ペルーの植民地はスペインに莫大な富をもたらした。

 

1533年交易植民地カルタヘナ(現在のカリブ海に面したコロンビア北海岸の地域)を出発したスペインのゴンザロ・デ・ケサダはマグダレナ川をさかのぼり、山脈を越えボゴダに侵入、インカ帝国の初期の形態を成した第三の古代帝国チブチャを征服した。そして、ケサダは現在のコロンビア、パナマエクアドルベネズエラから成る植民地ニューグラナダを設立した。

 

メキシコ、ペルー、ニュー・グラナダはスペインに莫大な富を与えてくれた。先住民の帝国はすでに文明が確立しており、人口が多いが王の下に支配階級ができていたため、支配階級をスペイン人に取って代わるだけでよかった。

 

【北アメリカへの侵入】
スペインの南米大陸探検の目的はキリスト教の布教と、黄金や財宝獲得のための征服、その後の植民地化そして新大陸を横断できる海峡の発見だった。探検者はスペイン王またはメキシコ王代官から特別探検許可を与えられていた。

 

1527年、パンフィロ・デ・ナルヴァエス遠征隊の艦隊はキューバからフロリダに向けて航行中、ハリケーンで2隻船を失いながら、フロリダのメキシコ湾海岸のタンパに上陸した。
遠征隊は内陸から海岸に出て、森の木をで船を作り、ミシシッピ河口まで航行したが難破してテキサス海岸のガルベストンに打ち上げられた。悲惨な遠征によって次々と隊員が倒れ、最終的にメキシコ市まで帰還できたのはカベサ・デ・バカら4名だけであった。

 

生還したカベサ・デ・バカは見渡す限りの大平原をうずめた野生の「せむしの牛(野牛)」と黄金の都市「シボラの七都市」の噂を聞いたという、そして「シボラの七都市」は半ば信じられるようになった。

 

1530年始めにペルーと南アメリカを征服したピサロの遠征隊に参加したエルナンド・デ・ソトは「シボラの七都市」に興味を持ち遠征隊を組み、1539年にタンパに上陸、後のアラバマ州に入り、アパラチア山脈まで北上した後に1941年5月メンフィスに近くのミシシッピ川に到達した。

 

さらにアーカンソー州のフォート・スミス辺りまで遠征し、冬を越し、1942年5月ミシシッピ川西岸のアーカンソー州マッカーサー辺りに戻り、そこでエルナンド・デ・ソトは熱病によって死亡した。彼の部下達はボートを作り、ミシシッピ川を下り、メキシコ湾を渡り、1543年無事にメキシコのメキシコ湾東岸タンピコにたどり着いた。

 

同じ頃の1540年、フランシスコ・バスケス・デ・コロナドは西から探険し、メキシコ市から北上してアリゾナへ入ってグランドキャニオンを「発見」し、カンザスに到達して1542年に帰着した。

 

スペインの遠征隊は多くの犠牲を払いながら北アメリカ南部地域を探検したが南アメリカのような高度な文化の帝国はなく、黄金・財宝は発見できなかった。スペインの関心は中央アメリカから南に向けられていった。

 

【参考】
1.アメリカの歴史(1)、サムエル・モリソン、(株)集英社、1997.9.25
2.世界史年表・地図、亀井高孝・三上次男他、(株)吉川弘文館、1995.4.1
3.図解世界史、成美堂出版部、成美堂出版、2006.9.15
4.世界地図2006年版、秋山修一郎、(株)小学館、2015.12.1
5.ラテンアメリカ-自立への道-、染田秀藤世界思想社、2015.12.1
6.世界の歴史18-ラテンアメリカ文明の興亡-、秋山修一郎、(株)小学館、2015.12.1
7.各探検家についての情報、ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/