長崎平戸生まれで抗清復明の鄭成功による1662年の台湾統治と漢欧日が南シナ海で演じた貿易戦争

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京城攻略前の鄭成功の決意表明

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明の末期と清の興起

習近平総書記の夢は「中華民族の偉大な復興」であり、そのモデルは漢民族の王朝「明の建国」と拡大期に違いないとかってに推測しました。

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しかし、習近平さんの夢を実行する上で参考になるモデルは「明の建国」と朝貢航路を開拓した「鄭和の大航海」よりも、オランダ東インド会社を追い出し、台湾に初めて漢人政権を打ち立てた日本生まれの鄭成功(ていせいこう)とその父鄭芝龍(ていしりゅう)などの漢人海商集団、東インド会社、そして日本人商人との南シナ海を舞台に演じた貿易利権争いの方が現在の状況に似ており、参考になると思いました。

 

鄭成功は1624年、江戸時代初期(中国の明の時代)長崎の平戸で中国人海商 鄭芝龍(ていしりゅう)を父と日本人田川マツの間に生まれ、幼名は福松(中国名は鄭森”ていしん”)と言いました。

 

 

【明の滅亡と清の興起】

1500年後半になると、明王室の贅沢三昧で浪費が続き、さらに、モンゴル族のボハイの反乱、朝鮮の壬辰倭乱への支援、重慶の楊応龍(ようおうりゅう)の反乱など大規模な反乱鎮圧に莫大な戦費を消費、財政が逼迫してきました。

1616年中国東北部女真族=(韃靼(だったん))の「ヌルハチ(後の清の太祖)」がハンに即位し、後金を建国しました。

 

1618年、撫順近くのサルフの戦いで明軍を撃破、1621年遼陽、瀋陽を占領、瀋陽に遷都しましたが1626年急死、後継者のホンタイジ(清の太宗)は1636年女真族満州族に改め、ハンを兼ねて皇帝に即位、国号を「清」に改称しました。

 

軍備を整え、勢い付いた清軍は1641年明国征服を目指し進軍しますが明の防衛線「万里の長城」の最東端にある北京侵入口で難攻不落の「山海関」で足止めを食らいます。

1627、1628年明の陝西省(せんせいしょう、省都:西安=長安)北部に干ばつによる大飢饉が起こり、これをきっかけに陝西省延安で王嘉胤(おうかいん)が反乱を起こします。

 

1636年反乱軍を受け継いだ李自成は1644年西安(唐時代の首都長安)を占領して西京と改め、大順国を建て自らを順公と称し、北京に進撃、1644年3月北京城を攻略し、崇禎帝(すうていてい)を自殺に追い込み、明を滅亡させました。

明の滅亡を知った山海関の守備の将軍「呉三桂(ごさんけい)」は清軍と手を組みます。清軍は難なく山海関を越え、明に無血入場し、呉三桂とともに李自成軍を破り、北京を占領し、大順政権を崩壊させました。

李自成は逃亡しますが1645年6月湖北省の山の中で農民に殺されました。

 

明王朝皇族の南明政権の滅亡】

1644年の明の滅亡後、皇族を擁立する南明政権が樹立しましたが。1645年清は南明政権掃討作戦を行います。1645年南京を拠点とする副王政権を壊滅、浙江(せっこう)の魯王(ろおう)政権壊滅、続いて鄭成功の父 鄭子龍が1644年に擁立した福建の唐王(とうおう)を1645年壊滅、1661年、最後に広東の桂王(けいおう)を追い詰め・殺害し、南明政権を滅亡させました。

 

一方、1646年父 鄭子龍は清に降伏しますが遊牧民族の清軍に対し武装船団を持ち海戦など極地戦に強い鄭成功は徹底抗戦を続けます。

 

【16~17世紀の南シナ海海域の利権争い】

安平港(現在の台南市)の北西に位置する澎湖(ほうこ)諸島は水産資源が豊富で漢人が住んでいました。

 

しかし、明王朝初期(1400前半)、陸のシルクロード(複数の交易路=帯)と鄭和が開拓した海のシルクロード(航路)の明朝版一帯一路で形成された朝貢関係にある冊封(さくほう)体制を維持し、中華民族中心の東アジアにおける国際秩序を守るため、また反明勢力の拠点防止や倭寇を防ぐため、明政権は「海禁政策(海外貿易制限)」を実施、澎湖諸島を放棄、漢人住民を福建へ移住させました。

 

すると、沿岸の住民は漁や交易、そして海賊が横行しました。やがて日本と中国東南沿海地域との間の密貿易の拠点なりました。

 

1548年から東南沿海(浙江、福建、広東、台湾一帯の海域)での倭寇討伐が積極的になり、1567年頃から海禁政策(海外貿易制限)が緩和され、商人たちの東南アジアでの活動を許可しました。

 

1600年イギリスが東インド会社を設立し東南アジアに進出すると、オランダも1602年連合東インド会社を開設し、1619年オランダ東インド会社バタビア(現在のインドネシアジャカルタ)に総督府を置き、東アジアとの貿易に乗り出しました。

 

1588年豊臣秀吉が海賊船停止令や倭寇禁止令や1592年朱印船制度を発令すると日本商人は南海貿易にのりだすようになりました。1603年江戸幕府が開かれますが朱印船貿易は続きます。1609年オランダが平戸と貿易が始まりますが、1616年から段階的に鎖国政策が実施されていきます。

1690年には南シナ海の島々の日本人街の邦人は消滅していきました。

1700年には清国船は8隻、オランダ船は5隻のみに限定されました。

 

1625年貿易船を襲い、また、中国沿岸を荒しまわる海賊の顔思齊の跡を継いで頭領になった鄭芝龍(鄭成功の父)は澎湖島や台湾南部一帯に拠点を作り、ライバルの海賊船を海戦で滅ぼし、あるいは貿易船を襲い略奪や密貿易を行い、一大海商集団を築いていきました。

 

やがて日本、中国、東南アジアを結ぶ南海貿易のトップの座を占めるようになる1628年、財政難に陥っていた明王朝は苦肉の策として鄭子龍を福州の都督(長官)の地位を与え、中国沿海の海賊の取り締まりを命じました。

鄭子龍海商集団は活動の拠点を福建の厦門金門島に移し、武装取締船隊は中国沿岸海域や台湾海峡海域の海賊を取締りながら海商集団は貿易を続けていきました。

 

台湾海峡の台湾その中の澎湖諸島は中国、日本との貿易ルートの要所であるため、オランダは澎湖島を1604,1622年占領しますが明の勧告を受け、いずれも撤退します。そして、1624年オランダは大員(タイオワン、現在の台南市安平)にゼーランディア城を築き、台湾統治と対外貿易を開始しました。

 

鄭成功の反清復明抵抗運動】

明政権の都督(長官)鄭芝龍は1644年明が滅亡すると福州に明の皇族の唐王を擁立し南明政権を樹立しました。

鄭成功は7歳で平戸から明に渡り、科挙を目指し1644年南京の国士監太学に入学しており、既に22歳になっていました。

1645年鄭成功は唐王から皇帝の姓(国姓)である「朱」と名「成功」を賜りますが畏れ多いと朱をなのらず元の姓を使い鄭成功となのるようにしましました。すると鄭成功は国の姓を賜ったことで一族や民衆から尊称「爺」を付けて国姓爺(こくせんや)と呼ばれるようになりました。

(1715年近松門左衛門は当時、姓は性を使われていることから鄭成功をモデルにした浄瑠璃を「国姓爺合戦」でなく「国性爺合戦」としている。)

1645年南明政権が滅亡し、1646年父鄭芝龍は清に降伏しますが鄭成功は父と袂を分かち、抗清復明の旗印を掲げ、明の復興ため清に立ち向かいます。

1659年7月清の南京城を陥落寸前まで追い詰めますが清の奇襲作戦に破れてしまいました。

 

【鄭政権敗北後、台湾は清の隷属下へ】

1661年根拠地を厦門(アモイ)から台湾に移動することを決意、当時、オランダ人が占領していた台湾のゼ―ランディア城を海と陸からの包囲する兵糧攻めで勝利し、台湾を解放し、鄭氏政権を樹立しました。南部・中部を開発・農地化、所有する大型船団を使い日本・東南アジア諸国と交易を図り、その収入で鄭氏政権を支えました。

 

成功死後の1683年澎湖島(ほうことう)沖の海戦で清軍に大敗し、台湾の鄭氏政権は滅亡し、1644年の清王朝発足から19年経ち、ついに、1683年清の中国征服は完了しました。

1684年、台湾は清の直轄統治の台湾府となり、福建省の隷属下に置かれました。

 

50数年後の江戸時代中期の1715年、近松門左衛門は日本人の母を持つ鄭成功を日本の侍「和藤内」に替え、明の再興のため力を尽くした史実を大幅に脚色して作ったのが浄瑠璃国性爺合戦」だったのです。

ちなみに鄭成功の日本版である和藤内は和(日本)でも唐(中国)でもない(無い、内)という洒落を効かせ、近松門左衛門が付けた名前でした。

 

それから185年後の1900年(明治32年)教育者  杉浦重剛は敬愛する古人として評論文を書いています。yaseta.hateblo.jp

【中国の歴史の参考】

1.「中国共産党100年式典演説全文」中華人民共和駐日本大使館HP,2021.7.2

2.「明治名家 古人評論」 勢多 章之 ,博文館,1899.12.16(明治32年)

3.「日本の文学 古典編 41 国姓爺合戦・曽根崎心中」市古 貞次,ほるぷ出版, 1987

4.「すぐわかる中国の歴史」小田切 英,宇津木 章,(株)翔文社,2003.5.1

5.「教養の中国史」津田資久,井ノ口哲也,ミネルヴァ書房,2018.8.2

6.「一冊でわかる中国史岡本隆司,(株)河出書房新社,2020.8.20

7.「中国の歴史を知るための60章」並木頼壽,杉山文彦,(株)明石書店,2011.131

8.「詳説台湾の歴史 台湾高校歴史教科書」薛 化元,訳 永山英樹,雄山閣,2020.2

9.「中国歴史地図」朴漢済,訳 杉山文彦,(株)明石書店,2011.1.31

10.「鄭和の南海大遠征」宮崎 正勝,中央公論社,1997.7

11.「物語中国の歴史」寺田 隆信,中央公論社,1997.4

12.「世界歴史体系 中国史 4 」松丸 道雄,山川出版社,1999.6

13.「鄭成功とは?」長崎県平戸市,鄭成功記念館HP

14.「人物 中国の歴史9 激動の近代中国」尾崎秀樹,集英社,1982.2.20