5月の絵「平家物語 平清盛のクーデターと以仁王(もちひとおう)の謀反」

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鹿ヶ谷事件の翌年の1178年(治承2年)平清盛の娘で高倉天皇中宮「徳子(とくし)」が懐妊し、11月に言仁親王(ときひと、後の安徳天皇)が誕生しました。

 

平家にとってさらなる栄華が期待され喜びに沸きかえっていました。しかしながら、平家の隆盛に水をさす事件が次々と起こります。

 

1179年(治承3年)5月都に突風が吹き荒れ、建物が崩壊し、死者を多数だした。この事件は神が怒り、さらなる凶事を起こす前触れではないかなどの公卿や民衆から不安の声があがりました。清盛の嫡男「平重盛」は神の怒りを鎮め、平家一門繁栄の持続を祈るため自分の命をかけ熊野参詣を思い立ちます。

 

熊野参詣から戻った何日もたたぬうちに病の床についてしまいます。重盛は病気が治るも治らないで死を迎えるのもすべて天の心である。病気が一過性のものであれば治療しなくとも治癒し、病気が定められた業であれば医者の診察は無益であると治療を断り、出家し、ひたすら念仏を唱えましたが、1179年8月、43歳で死去しました。(平家物語「つじかぜ」、「医師問答」(参考1.))

 

清盛は鹿ヶ谷の陰謀後白河天皇も関与していたと確信していましたが重盛のとりなしで後白河法皇に対する疑いを表面上、撤回するなど重盛の存在は法皇平清盛の確執の緩衝役になっていましたが、重盛の死で緩衝役がいなくなり、権謀術数の法皇と清盛の確執はいよいよ深刻化してきました。

 

清盛は将来を期待していた重盛の死を悲しみ、都を離れ、福原に籠っていましたが1179年11月数千騎の軍勢を率いて都に上ってきました。

 

後白河法皇は驚き、静憲(じょうけん)法印を遣わしてその理由を聞くと清盛は後白河法皇の行為に対する怒りの原因を次のように言います。
1.重盛の四十九日内に石清水御幸をして音楽遊びをしたこと。
1.前関白藤原基実の摂関家領および平重盛の所領を没収したこと。
1.中納言に関白藤原基房の子を就かせるという正当性を欠く人事を行ったこと。
1.鹿ヶ谷の謀議に加担したこと。

 

前関白の藤原基実(妻は清盛の娘盛子)が24歳で死去したため、現在、弟の藤原基房が関白についているがいずれ、基実の子「基通」が継承するものと清盛は考えていた。ところが院政を敷き、実権を握っている後白河法皇は前関白基実の妻盛子が1979年6月没すると摂関家領を没収、続いて1980年8月に重盛が没すると所領を没収した。

 

さらに、10月、現関白基房の子でわずか8歳の中将藤原師家(もろいえ)を二位の中将で前関白基実の子藤原基道を飛び越え中納言に任命した。天皇の外祖父であり、前関白の義父であり、基通の義理の祖父である清盛を無視した許しがたい行為であるとしている。

 

しかし、法皇や公卿にしてみればもとはといえば政権も所領も清盛に横領されたという思いがあり、取り返そうと画策するのは当然の行為と思っている。このように法皇と清盛の間には修復し難い溝ができてしまっていたのです。

 

結局、清盛は武力を背景に関白基房を太宰師(だざいのそち)として鎮西(九州)に流し、太政大臣藤原師長(もろなが)を罷免して熱田(名古屋)に流し、権大納言源資賢(すけかた)を含む43人の官職を解き平家一門と平家関係者に替えました。

 

さらに清盛は法皇を鳥羽の離宮に幽閉し、院政を停止させ、藤原基通を関白に就かせ、政治の実権をにぎりました。日本の歴史において、最初の本格的な武家政権が誕生したと言われていますがクーデターによる政権の強奪は平家に対し、更なる反感を呼ぶことになります。

 

後白河法皇の長男「守仁(もりひと)親王」は「二条天皇」、三男「憲仁(のりひと)親王」は「高倉天皇」として皇位につきましたが次男の「以仁(もちひと)王」は30歳になったにもかかわらず天皇につくことができず、不満に思っていました。

 

ところが、1180年(治承4年)2月、清盛は高倉天皇の子「言仁(ときひと)親王」をわずか3歳で強引に安徳天皇として即位させ、実質は清盛の独裁政治体制を作りました。

 

また、譲位御幸は石清水八幡宮春日大社や山門の延暦寺などが慣例であったが高倉上皇はこの慣例を破り、1980年1月の平家一門の守護神「厳島神社」御幸の後、3月「厳島神社」御幸したことが延暦寺園城寺興福寺などの大衆(だいしゅ、多数の僧侶や僧兵)の怒りを誘い平氏から離脱していきました。

 

一方、安徳天皇の即位で「以仁(もちひと)王」は天皇即位の夢を断たれ、落胆するとともに怨みが残りました。そこに平家の隆盛に不満を抱き、源氏再興を願う源頼政以仁王に平家追討を勧め、これに応じた以仁王は1180年4月28日、平家追討の令旨(りょうじ)を発しました。
(令旨(りょうじ):皇太子や親王の命令を記した書、院宣(いんぜん):上皇法皇の命令、勅(ちょく):天皇の命令)

 

頼政源行家を召しだし、諸国の源氏に以仁王の令旨を伝えさせた。令旨を受けた熊野では以仁王側がいち早く立ち上がりと平氏方と戦い、勝利した。熊野別当湛増」は六波羅以仁王の叛乱を急報した。ただちに、5月15日、検非違使を送り、以仁王逮捕に向かわせたが頼政の内報で園城寺滋賀県三井寺)に逃れました。

 

5月21日、清盛の弟の平頼盛、教盛、経盛、清盛の子の知盛、重衡、重盛の子の維盛、資盛、清経、そして源頼政を大将とする平氏は(28,000の軍)を率い園城寺にむかった。

 

源頼政と息子仲綱、兼綱達は夜半秘かに抜け出し、以仁王側に加わった。平氏延暦寺園城寺の座主を通じて大衆の切り崩しを計った。

 

園城寺に立てこもった以仁王頼政は予想より早い平家の追討に近隣の源氏の支援を得られず、危険を感じ、5月25日の夜半、園城寺を脱出し、南都(奈良)にむかった。これを察知した平氏は追跡し、昼頃、園城寺の末寺である宇治平等院で追い付き、宇治川をはさんで合戦となった。(平家物語では数1000に対し28000)

 

以仁王側は宇治橋の橋板を外し、防戦を行うが数にまさる平氏宇治川を渡り、平等院に攻め入った。壮絶な戦いの結果、頼政親子は討死、以仁王は南都に逃れる途中、平氏の流れ矢に当たり、戦死したという。以仁王に加担した罪で園城寺平氏に焼き払われ、5月27日、僧侶たちも処罰された。

 

この日、平氏に居候していた関東の平氏三浦義済、千葉胤頼(たねより)は伊豆の源頼朝のもとに出奔、情勢を伝えた。以仁王の叛乱は失敗に終わったものの平氏打倒の気運がだんだんとひろがりつつあった。

 

【参考】
1.「日本古典文学全集45 平家物語1」、市古 貞次、(株)小学館、1976年11月30日
2.「平家物語図典」、五味 文彦、(株)小学館、2005年4月1日
3.「日本の歴史6 武士の登場」、竹内理三、中央公論社、1965年7月15日
4.「日本の歴史⑦ 武者の世に」、入間田宣夫集英社、1991年12月11日