12月の絵「平家物語 建礼門院の死去、六代の斬られ、それよりしてこそ、平家の子孫はながくたえにけれ」

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 1185年3月24日壇ノ浦の合戦で平氏は敗れ、多くの平家一門は入水し、最後を遂げる。入水したものの引き上げられた建礼門院、生き残った宗盛と清宗父子、平時忠・時実(ときざね)父子および女房・僧侶など多くの非戦闘員は捕らわれの身となった。

 

二位の尼安徳天皇を抱いて神璽(しんじ)と宝剣とともに入水し、海の底に沈んだ。三種の神器のうち宝剣、は行方不明になったが神璽(しんじ、八坂瓊曲玉[やさかにのまがたま])は源氏に回収され、神鏡(八咫鏡[やたのかがみ])は海底に沈む前に回収され、朝廷に戻った。

 

時忠は義経に対し、三種の神器返還に向けて奔走したことを強調し、義経に押収された文書の中に身を危うくする文書があり、頼朝の手に渡る前に取り戻すため、娘の蕨姫(わらびひめ)を義経に嫁がせるなど画策した。

 

一方、鎌倉の頼朝は源氏の勝利に導いた最大の功労者として朝廷や民衆にもてはやされている義経に危険を感じていた。そして、梶原景時から義経こそ最後の敵であると讒言され、しますます、不信感を募らせていく。

 

5月7日、義経は捕えた宗盛父子を連れ、鎌倉に向かうが5月24日、鎌倉手前の腰越で頼朝に逗留させられた。義経は頼朝に手紙を何回も出し、自分の潔白と忠誠を訴えるが宗盛父子だけを連行、義経は鎌倉に入りを拒否された。

 

宗盛は頼朝の前に引き立てられ対面するが平家統率者とも思えないような卑屈な態度に周囲から失笑を買う。義経は鎌倉入りを果たせず、6月9日、再び、宗盛父子を連れ、京へ向かった。宗盛は途中の近江の藤原宿で子清宗と共に斬首され、都に晒された

 

一の谷の合戦で捕虜になった平重衡(しげひら)は伊豆に拘留されていたが鎌倉から南都(奈良)の大衆(だいしゅ)に引き渡された。覚悟はきめたものの、東大寺大仏殿などを焼き打ちした大罪を思い、来世の3悪道(地獄、餓鬼、畜生)に行く恐れに思い悩んでいた。

 

法然上人との面会を許され、告白し、出家しなくてももっぱら南無阿弥陀仏の名を唱え、改心すれば、極楽浄土に行くことができると教えさとされた。そして、念仏を唱えながら、心やすらかにした重衡は大衆によって木津川の川辺で斬首された

 

源氏よる平家一門の残党狩りは厳しく、幼児も例外なく粛清するという苛酷なものであった。殺伐たる残党狩りも下火になり、世間も落ち着きを取り戻した1185年7月9日、突然、大地震が京を襲った。神社仏閣、貴族や民衆の家のほとんどが崩壊した。京だけでなく遠国も近国も同様で大地が裂け、山が崩れ、海岸では津波が起こり、甚大な被害を受けた。平家一門の怨霊であると人々は恐れ、おののく。

 

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地震の復興もままならない中の9月、捕虜となった公卿平氏などは処刑が免れ、それぞれ遠国に配流された。9月23日、時忠は配流先である能登にむかって旅たった(巻第十二「平大納言被流」)。

 

時忠は赦免される日を願ったけれど、再び京の土を踏むことはなかった。時忠は赦免される2ヶ月前の1189年2月24日、63歳でその生涯を閉じた。配流された人々は4月に京に召し返され、嫡子時実(ときざね)はその後、公卿まで昇進した。

 

8歳のわが子安徳天皇と一緒に死ぬことがかなわなかった建礼門院女院、清盛の娘、高倉天皇正室)は4月25日に京に戻され、女院中宮の地位にあった時から側に付き添っていた大納言佐の局(だいなごんすけのつぼね)と阿波内侍(あわのないし)と東山の麓のさびれた僧坊に住むことになった。そして5月1日、出家した。まだ29歳という若さだった。

 

僧坊に住んで間もない、7月9日に大地震に見舞われ、土塀は崩れ、僧坊はあちこち壊れ、傾いてしまい、気落ちしてしまった。平家一門の菩提を弔うため、9月末に大原山の奥にある寂光院という野寺の近くに仏所と寝所を備えた庵室を造り、移り住んだ。

 

こうして昼夜・朝夕の御勤行(おつとめ)、念仏にはげむ月日を過ごしていた。こうしたわびしい生活を送っていた頃、花も散り青葉になったかと春の名残を惜しまれる1186年4月20日過ぎ、突然、後白河法皇女院の庵を訪れた。

 

後白河法皇と対面した女院は数奇な運命を語る。「現在の苦しみは、後生菩提のためを思えばかえって喜びであり、肉親の愛も善知識(教えを説いて仏道へ導いてくれるよい友人、指導者、知識)である。」さらに、「自分は行きながらにして六道をまのあたりに見た。」

 

天皇の母として栄華の中にあった生活(天上界)、1183年(寿永2年)都落ちし、西国をさまよう中で、盛者必衰を知り、愛別離苦、怨憎会苦(おんぞうえく)を知った日々(人間界)、食べ物にも困る流浪の生活、四方海に囲まれのどの渇きに苦しんだ日々(餓鬼道)、一の谷合戦以後、続く目の前で繰り広げる殺し合い(修羅道)、壇ノ浦で母(二位の尼)と子(安徳天皇)を目の前で失い、残された人々の悲痛な叫び(地獄道)、皆が竜宮城にいると知った夢(畜生道

 

あまりにも凄惨な平家一門滅亡の話に法皇はただただ驚き、憐れみ涙が止まらず、お供の公卿や殿上人も涙で袖を濡らした。

 

そのうち、寂光院の鐘の音が響き、今日も暮れたと知らされ、夕日が傾くと法皇は名残り惜しくは思われたが、涙をこらえ御所にお帰りになった。

 

その後も女院は念仏に明け暮れる静かな生活を送るがやがて病気にかかり死期が近づいてきた。阿弥陀如来の手にかけた五色の糸を持って「南無西方極楽世界の教主阿弥陀如来、必ず極楽浄土へ引き連れて行ってください」と言って念仏を唱えたので大納言佐の局と阿波内侍は女院の左右につき添って、今が最期という悲しさに声を出して泣きだした。

 

西に紫の雲がたなびいてなんともいえないすばらしい香りが室内にみち、音楽が空の方から聞こえてくる中、1191年(建久2年)2月中旬、静かに往生を遂げた。

 

一方、頼朝と義経の対立は最悪の状況を迎える。頼朝は義経追討を決意し、1185年10月1日、討手「土佐房昌俊(とさのぼうしょうしゅん)」を送る。土佐房昌俊義経邸に夜襲をかけるが失敗、殺された。

 

次の討手に頼朝の弟範頼(義経の兄、のりより)を命じるが、辞退しながらも頼朝に忠誠を誓う手紙を百日間に千枚を送るが1185年10月、殺されてしまった。(他の文献玉葉1193年(建久4年)8月)

 

11月8日には頼朝の力を恐れた後白河法皇は手のひらを返し、義経・行家追討の院宣を下した。義経は朝廷の敵となってしまった。1186年5月行家は殺されたが義経は行方知れずになった。

 

1187年秋に平泉の奥州藤原氏の秀衡(ひでひら)の元に逃れていたことが判明し、1187年10月秀衡が死ぬと頼朝はあとをついだ泰衡(やすひら)に圧力をかけ、1189年閏4月、義経を殺害させた。(享年31歳)そして、7月には頼朝は奥州藤原氏に総攻撃をかけ、滅ぼしてしまった。

 

苛酷な平家残党探索はつづき、次々と捕えられ、子供であれ容赦なく処刑された。そして、遂に平家嫡流、維盛の子で12歳の六代御前が北条時政に捕えられた。乳母(めのと)の女房が頼朝から信頼されている高雄の文覚上人に六代助命を願った。

 

文覚からの連絡もなく、時政が鎌倉に向かい出発した。1185年12月16日、時政は駿河の国の千本松原で決意し、処刑を下そうとしたその寸前で頼朝からの赦免城が届き救われた。

 

六代は出家し、熊野参詣をして亡き父維盛を弔い、そして平家一門の菩提を弔う平穏な日々が続いた。1199年1月13日頼朝が死去した後、文覚は後鳥羽天皇に譲位をせまる謀反を画策したということで壱岐流罪になった。文覚の後ろ盾をなくした六代は源頼家の命で捕えられ鎌倉まで連行され、1199年2月5日、田越川(神奈川県逗子市)で斬首された。それ以来、平家の子孫は永久に絶えてしまった。(享年30歳余り)

 

それよりしてこそ、平家の子孫はながくたえにけれ。

 

 

【参考】
二位の尼:時子、平時忠の姉で清盛の正室、徳子の母、安徳天皇と共に入水
徳子(とくし):建礼門院、清盛の娘、高倉天皇正室安徳天皇の母
安徳天皇:(第81代天皇高倉天皇と徳子の子、満1歳3ヶ月で即位、8歳で入水)
大納言佐の局(だいなごんすけのつぼね):北の方、平重衡(しげひら)の妻
阿波内侍(あわのないし):保元の乱当時、後白河天皇側についた後鳥羽上皇の側近「信西」の娘

 

【六道輪廻】
生き物はすべてこの世にうまれて、そして死んでいくが、一つの生き物が死ぬと、別の生き物に変わるという仏教の考えを輪廻といい、生まれ変わる世界は天上界、人間界、餓鬼道、修羅道地獄道畜生道の六道に別れているという。
 
【修正追加(参考5)】
鎌倉時代前後(12世紀後半)に成立した地蔵十王経によると10人の仏よって7日ごとに裁かれ、生まれ変わりるが決まらない場合、つぎの7日に裁かれ、遅くとも49日までにはどの世界に生まれ変わるか決められると言われている。そして、故人が修養を積むことにより、六道から脱出し、阿弥陀如来勢至菩薩観音菩薩の仏によって極楽浄土へ導かれるといいます。なお、13仏信仰は室町時代に成立したといわれています。
天皇陛下の即位を内外に宣言される「即位礼正殿の儀」が皇居宮殿で行われた令和元年10月22日記)
 
【参考】
1.「日本古典文学全集46 平家物語2」、市古 貞次、(株)小学館、1994年8月20日
2.「平家物語図典」、五味 文彦、(株)小学館、2005年4月1日
3.「日本の歴史6 武士の登場」、竹内理三、中央公論社、1965年7月15日
4.「真説 歴史の道第24号 平時忠 平家流転」、(株)小学館、2010年8月24日
5.「仏教民俗辞典」、新人物往来社