絵画
平成31年3月の絵 令和元年10月22日、徳仁(なるひと)天皇陛下の即位を内外に宣明する「即位礼正殿の儀」が皇居宮殿で行われました。参列された世界180カ国の高官と日本国民により祝福されました。 天皇陛下が高御座(たかみくら)にお立ちになり…
彫刻 風神・雷神像 ・作者不明 (鎌倉時代) 京都妙法院三十三間堂 屏風絵 風神・雷神図屏風(びょうぶ) ・俵屋宗達(江戸時代初期17世紀前半)京都建仁寺が所蔵 ・尾形光琳(江戸時代前期18世紀初)東京国立博物館所蔵 ・酒井抱一(江戸時代後期182…
小さい頃から母は平時忠の子孫である能登の時国家とは関係あるということを折に触れ、話してくれましたが知識も乏しく、平時忠がどれほどの人物であるかなどほとんど知らず、聞き流していました。3年前、野田市報に載った「平家物語を楽しむ会」の入会募集…
yaseta.hateblo.jp 1185年3月24日壇ノ浦の合戦で平氏は敗れ、多くの平家一門は入水し、最後を遂げる。入水したものの引き上げられた建礼門院、生き残った宗盛と清宗父子、平時忠・時実(ときざね)父子および女房・僧侶など多くの非戦闘員は捕らわれの身とな…
yaseta.hateblo.jp 1185年(元歴2年、文治元年)2月21日の屋島の合戦で敗れた平宗盛を総大将とする平氏本軍は平知盛(とももり)の陣がある長門の国の彦島(関門海峡)に退却した。 平氏は瀬戸内海各地の水軍を持ち、淡路・讃岐から長門・北九州までの制海権…
yaseta.hateblo.jp 1184年(寿永3年、元歴元年)2月7日の一の谷の合戦で大敗北に帰した平氏は舟で屋島に落ち延びたが水軍を持たない源氏は追撃することができなかった。 そこで、頼朝は都周辺、山陽・九州の掃討に努め陸地の勢力確保を図るため、平氏の支配…
yaseta.hateblo.jp 平氏が都落ちした1183年(寿永2年)7月25日の3日後の7月28日、木曽義仲と源行家は南北二手に分かれて京都に入った。 比叡山から御所に戻った後白河法皇は平氏に安徳天皇と三種の神器を返すよう求めたが拒否されたため8月20日、安徳天皇の…
yaseta.hateblo.jp 1181年閏2月4日の清盛亡き後、嫡男の宗盛は平氏のリーダーになったものの、後白河法皇を制しながら源氏に対抗するという難題を解決し、平家一門だけでなく政治の安定化を図っていくというリーダーとしての素養に欠けていた。宗盛は策略家…
yaseta.hateblo.jp 1181年、年明けて早々、鎮西(九州)の有力武士が叛乱を起こし、伊予、阿波などで源氏に呼応した武士が蜂起、紀伊熊野では平氏の発祥の地、伊勢に乱入事件があり、各地で内乱が起こりました。 平氏はこれに対し、正月16日、畿内(都の領域…
yaseta.hateblo.jp yaseta.hateblo.jp 1180年2月の安徳天皇即位とともに平家の栄華がさらに続くかと思われたがこの時点を境に平家は急速に衰退に転じていきます。 1180年4月28日、源頼政が「平家打倒すべし」の以仁王(もちひとおう)令旨を諸国の源氏に伝え…
yaseta.hateblo.jp 鹿ヶ谷事件の翌年の1178年(治承2年)平清盛の娘で高倉天皇の中宮「徳子(とくし)」が懐妊し、11月に言仁親王(ときひと、後の安徳天皇)が誕生しました。 平家にとってさらなる栄華が期待され喜びに沸きかえっていました。しかしながら…
yaseta.hateblo.jp 平清盛は保元・平治の乱の経て次々と官職昇進をなし、1167年、清盛は従一位・太政大臣になり、やがて息子の重盛は左大将、宗盛は右大将になります。そして平家一門40人以上が公卿・殿上人になり、高位高官を独占、清盛の娘たちも高倉天皇…
yaseta.hateblo.jp 1156年の保元の乱で後白河天皇方につき実権を握った信西は戦後処理で全230巻におよぶ「法曹類林」という法律書を整備編集した実績を背景にして、崇徳上皇(後白河天皇の兄)の遠流し、過去200年間行われなかった死刑を復活させ、源為義(…
yaseta.hateblo.jp 平家物語(*1)ではこれまで藤原一門が支配していた政治権力を平家一門が占めることになったいきさつについて、最初の2つの項で一之巻の「殿上の闇討」と「鱸(すずき)」で簡単に述べているだけでした。 まず、平清盛や源義朝が歴史の…
2010年のマンガ絵12ヵ月シリーズは「平家物語」を題材にして絵を描こうと思います。 平家物語と言えば、「祇園精舎の鐘の声・・・・・」で始まる文章はあまりにも有名です。(この文章の終わりに平家物語「祇園精舎」の冒頭部分の現代語訳を載せました。) この文…
[東海道五十三次] ブログ村キーワード 「石部」は東海道五十三次の51番目の宿場町で、現在は滋賀県湖南市です。 伊勢参りの一行が踊りながら歩いており、その様子を通りがかった旅人が眺めています。昔も路上パーフォーマンスがあったようです。京都まであと…
鳴海は40番目の宿場で現在の名古屋市緑区の名鉄名古屋本線の鳴海駅あたりのようです。 鳴海は有松絞りと呼ばれる木綿の風呂敷や浴衣の絞り染めが有名です。 版画は有松絞りの店と通りには籠に乗った女性、馬に乗った女性、歩きの女性が描かれていますが女性…
御油は35番目の宿場で現在の愛知県豊川市御油町です。 東海道五十三次之内浜松(5月の絵) yaseta.hateblo.jp
2009年5月9日の読売新聞にキトラ古墳壁画の青龍の復元図が載っていました。私はこの絵を気に入ってしまい、残りの白虎・朱雀・玄武を含めた四神を描こうと思いました。 奈良県文化財研究所の飛鳥資料館特別展示室のHPに入り、他の三つの獣神の復元図を探し…
広重の東海道五十三次の版画は「冬枯れの浜松」で焚き火にあたりながら一服している風景です。 模写絵は駕籠かきや馬子が新緑の季節に焚き火をしているのは暖をとるためでなく、一服するためとして描きました。 5月1日、夜9時のフジテレビで、昭和40年…
4月は東海道五十三次の20番目の宿場「鞠子宿」です。現在の静岡市駿河区丸子で日本橋から約46里(184km)の道のりです。 鞠子といえば「とろろ汁」が有名です。 東海道五十三次之内戸塚(3月の絵) yaseta.hateblo.jp
3月は東海道五十三次のなかで最大の難所の箱根です。明治になって、箱根峠は「箱根八里」に歌われたように紀元前200年頃、劉邦が守備した要害の関所「函谷関」にも勝るとも劣らない「天下の険」と言われました。 広重の版画と広重が参考にした(模倣した…
2月は東海道五十三次の戸塚宿です。現在の横浜市戸塚区で日本橋から約42km(約10里半、徒歩約10時間半)の道のりです。 絵の中の店の看板に「こめや」と書いていますが米屋ではなく茶店だと思います。 日本橋(1月の絵)yaseta.hateblo.jp
明けまして おめでとう ございます。 今年もよろしくお願いします。 今年は葛飾北斎や喜多川歌麿とならぶ浮世絵師の一人歌川広重(または安藤広重)の絵の中から毎月1枚選び模写しようと思います。 1月は東海道五十三次の出発点の日本橋を描いた絵を模写し…
2009年のカレンダーの表紙絵は新薬師寺金堂に座する薬師如来の眷属神(付き従う)である十二神将です。 新薬師寺とこれらの像は1261年前の747年、奈良時代の天平文化が華を咲かせた頃完成したと伝えられています。
2009年12月のカレンダーは十二神将の「毘羯羅大将(びから)」です。
2009年11月のカレンダーは十二神将の「招杜羅大将(しょうとら)」です。
2009年10月のカレンダーは十二神将の「真達羅大将(しんだら)」です。
2009年9月のカレンダーは十二神将の「摩虎羅(まこら)大将」です。
2009年8月のカレンダーは十二神将の「波夷羅大将(はいら)」です。