7月の絵「平家物語 海外貿易と平家安定の夢半ばで逝った平清盛」

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1181年、年明けて早々、鎮西(九州)の有力武士が叛乱を起こし、伊予、阿波などで源氏に呼応した武士が蜂起、紀伊熊野では平氏の発祥の地、伊勢に乱入事件があり、各地で内乱が起こりました。

 

平氏はこれに対し、正月16日、畿内(都の領域)および近江・伊賀・伊勢・丹波国司を入れ替え、軍政組織に変更し、対抗措置にでました。

 

そして、内乱の鎮圧に向けて動こうとしていたさなかの2月末、突然、清盛は風邪をひき、肺炎を起こし、高熱と頭痛に悩まされました。死期を悟った清盛は後白河法皇に「清盛亡き後は万事、宗盛に仰せつけられ、宗盛と御相談をくださいますように」と使いを送るも、法皇は無視します。

 

代々海運に携わってきた清盛は規模に制限のある荘園管理よりも、海外貿易の振興は大きな収益をあげることができると確信していました。1162年から福原(神戸市)の大輪田泊(おおわだのとまり、現在の神戸港)の改修工事を行い、1173年までにはほぼ整備し、宋との貿易の拡大を図ってきました。

 

そして、更に、発展させようと1180年6月、京都から福原へ遷都し、新しい経済・政治都市を構築しようとしたものの、海外貿易の必要性や遷都の意味を全く理解できない、保守的で視野の狭い法皇・貴族達の根強い反抗にあいます。(参考3:福原遷都は比叡山大衆の圧迫説が有力としていますが海外貿易説も理由のひとつであると載っています。)

 

結局、3ヶ月前の1180年11月、政情の不安もあり、福原遷都後、わずか5ヶ月間で断念しました。そして2月末、そこへ追い打ちをかけるように病気になり、1181年閏2月4日で死去してしまいした。海外貿易を発展させ、財政基盤を安定させ、平家そして国を繁栄させるという清盛の夢は途中で潰えてしまいます。

 

2010年NHK大河ドラマ「竜馬伝」はじめ、多くの書物では過去の表現まで言及していないため、神戸は幕末に港がはじめてできたように思われがちですが既に700年以上も前に平清盛はさびれた漁港だった大輪田泊を改修し、海外貿易の拠点として変えていったのです。

 

また、平家物語では平清盛ば庶民をかえりみない、天皇・寺院を無視する横暴を働く悪人として描かれ、それが大多数の国民の平清盛の人物像を作り上げてきました。しかし、公平な立場で歴史的事実を探っていくと全く違った点が見えてきます。

 

当時、平清盛ほど海運実務に実績を持ち、海外貿易の重要性を認識していた人はおらず、当時の知識階級である貴族や僧侶などが思いしない柔軟な考えを持ち、卓越した指導力を兼ね備えた人物だったといえるのです。

 

もし、平清盛が生きていれば清盛のリーダーシップと大規模な軍事力を持って平氏は源氏を打ち負かしたかもしれません。そして、国として海外貿易を奨励し、海外の知識・技術・文化が交流し、グローバルな考え方のリーダーが次々現れ、江戸時代のような鎖国は生まれなかったかもしれません。

 

残念ながら、身内以外に人脈を作れず、優れた参謀はなく、また息子達は才能不足で、清盛は平家の将来を危うんでいました。その結果、権謀術数にたけた朝廷内の法皇・貴族を信用せず、武力を背景に身内だけで政治をやろうとしたところに失敗の原因があったように思います。

 

平清盛は貴族から政治を取り上げた史上はじめての武士であり、海外交流を積極的に推進した人物です。我々は平清盛のすぐれた面も理解する必要があると思います。特に、国際貿易港の礎をつくった功績を広く知らしめるため、神戸市に平清盛銅像を建立しても良いと思います。ないのが不思議に思えてきました。

 

この文章を作り、「平清盛の無念の死」の絵を描こうとしていた時の8月5日の読売新聞に、再来年の2012年NHK大河ドラマに「平清盛」が決定したと報じられました。

 

1972年、仲代達也が平清盛を主演したNHK大河ドラマ「新・平家物語」から51作目の記念となる作品として、また今回は、特に宋との貿易で富を築いた若き日の清盛を軸に歴史の表舞台に立つところから滅亡までを描くそうです。平清盛の功績がどのように描かれるのか期待したいと思います。

 

(なお、ドラマの制作はチーフ・プロデューサー:磯智明氏、チーフディレクター:柴田岳志氏(演出)、脚本:藤本有紀さん(NHK連続ドラマ「ちりとてちん」を手掛けた)があたるとありました。)

 

【平家の海外貿易について】

 

清盛の曾祖父・平正衡(まさひら)は伊勢(三重)を基盤に持ち、美濃(岐阜)、尾張(愛知)、伊勢地域で信仰が深かった海神・多度神社を勢力下に入れていました。

 

祖父・平正盛白河法皇に仕えて、因幡鳥取)、讃岐(香川)、備前(岡山)など西国の国守(くにもり)を歴任、父・忠盛も西国の国守を歴任し、海賊の追討を通じて瀬戸内海一体の武士たちを組織していきました。

 

忠盛は備前守としての在任中、鳥羽上皇に海賊討伐の院宣の宣下を奏上し、その院宣を受け、海賊討伐を行い、70名を捕らえ、都に凱旋し、検非違使に引き渡し、名をあげたといいます。しかし、当時、瀬戸内海に院宣を受け討伐するほどの大海賊がいたということが疑わしいと言われています。

 

また、院の命令と称し、宋人と直接貿易をして富を蓄え、1123年鳥羽上皇御願寺である得長寿院を造営し、三十三間堂を建て、一千一体の仏を据え、朝廷に奉りました。

 

鳥羽上皇は大いに感心し、当時36歳だった忠盛を異例の抜擢により、内裏の清涼殿の昇殿を許可しました。当時の武士は御所の警備や地方の朝廷の領地・荘園を守るだけの低い地位に置かれ、地下人「ちげびと」ともいわれており、その武士の棟梁が貴族の檜舞台にあがることは画期的なことでありました。しかし、貴族にとって許し難く、阻止しようとする嫌がらせや企みが起こりました。(平家物語巻第一「殿上の闇討」)

 

清盛は安芸(広島)守など西国の国守を忠盛から受け継ぎ、保元の乱の功で播磨(兵庫)守、となり、1158年には大宰府(九州・壱岐地域を統治する拠点で現在の福岡県太宰府市。長官は師(そち)、実質の運営・支配者は大弐(だいに)という武士)の大弐にとなります。

 

1162年2月、権中納言のとき、清盛はこれまで修復されず大輪田泊神戸港)に私費を投じ改修を開始した。(8月、大風が起こり、埋め立て工事中の島が崩れた時、公卿から人柱を立てよとの意見があったが、清盛は拒否し、かわりに一切経を書写した石で島を築いたので「経の島」と名付けられたこと、清盛の遺骨をこの島に納めたという説話がある。)

 

そして、清盛は瀬戸内海航路の要点となる安芸の国の宮島にある海上交通の守り神、厳島神社を修復し、平家の守り神にしました。1166年、清盛の弟の頼盛が太宰大弐を継ぎ、平家の財政基盤作りのため、日宋貿易や九州地方の支配に力を注ぎました。

 

11世紀ごろの日本と東アジアの通商・貿易は日本-高麗(918-1392)-宋(980-1279)の三国間の中継貿易でしたが12世紀に入ると高麗が政治的不安定や北方の金(1115~1279)の勃興、宋の南遷など政局変化により、日本と宋の直接貿易となり、また日本の航海術・造船技術の進歩もあり、貿易は発展しました。

 

1167年、天皇の次の権力・太政大臣従一位に上り詰めた清盛は九州北部まで来航していた宋の商船をさらに瀬戸内海奥深く、京都に近い大輪田泊神戸港)まで招き入れ、1168年清盛は出家した後、福原(神戸市)に別荘をかまえ、ここに常時、住みました。

 

1170年、到着した宋人を後白河上皇とともに引見しましたが、保守的な貴族は外国との貿易が政治的にも財政的にも利益を生むということが理解できず、天魔の行為であると清盛を非難しました。1172年宋の皇帝から上皇と清盛宛に唐物が送られてきたのに対し、清盛は翌年春、公式に返書と答礼の物資を送って、日宋間の交流に積極的な態度を示しました。
平家物語、巻一「吾身栄花」では宋貿易の富を「楊州(ようしゅう)の金(こがね)、荊州(けいしゅう)の珠(たま)、呉郡の綾(あや)、蜀江(しょくこう)の錦、七珍万宝(しちちんまんぽう)ひとつとしてかけたることなし」)と'描いています。

 

多くの輸入品の中で「太平御覧(たいへいぎょらん)」は、中国宋代の書籍で日本にとって非常に貴重なものでした。太平御覧は唐の時代の様々な書から重要な語句や事項を集め、項目ごとに分類編纂した書物で二代太宗の時に、編纂が進められ、983年に完成しました。天、地、人事、儀式、飲食、神鬼、獣、木、果など55部門からなる1,000巻にのぼる膨大な書物です。宋では輸出禁止になっていたもので1,000巻の内の300巻を清盛が手に入れ、1179年安徳天皇への贈り物として贈っています。

 

また、清盛は唐船と呼ばれる宋の商船を数隻所有しており、天皇・貴族の厳島神社参詣に大輪田泊から送迎し、自らも主導して航行しました。また軍船としても使用され、壇ノ浦の戦いでも使用されていました。

 

【参考】
1.「日本古典文学全集45 平家物語1」、市古 貞次、(株)小学館、1976年11月30日
2.「平家物語図典」、五味 文彦、(株)小学館、2005年4月1日
3.「日本の歴史6 武士の登場」、竹内理三、中央公論社、1965年7月15日
4.「日本の歴史大系3 貴族政治と武士」、井上光貞他、山川出版社、1995年11月5日