3月の絵「平家物語 公家社会の終焉と武家社会のはじまり~平治の乱~」)

イメージ 1

 

1156年の保元の乱後白河天皇方につき実権を握った信西は戦後処理で全230巻におよぶ「法曹類林」という法律書を整備編集した実績を背景にして、崇徳上皇後白河天皇の兄)の遠流し、過去200年間行われなかった死刑を復活させ、源為義(義朝の父)や平忠正(清盛の叔父)など100名近い公卿や武将の処刑し、荘園没収を断行しました。

 

絶えてなかった死刑を復活させ断行した信西に対し、処刑された者の家族、信西に手を貸した公卿や武士からも恨みを買うことになりました。

 

信西は積極的に国政改革を推進するも、一方で一族を優遇します。また、保元の乱で論功賞が平氏より薄かった源義朝信西に近づこうと信西の子「是憲(これのり)」を娘の婿に申し込むが摂関家側の源氏を抑えようとしている信西はその申し出を拒絶します。ところが、信西は自分の子「成範(しげのり)」を平清盛の娘に婿にするという源氏の面目を潰してしまうことを平然と行いました。

 

これに対し、親兄弟を斬首し、はかり知れない犠牲を払った義朝は信西や清盛に敵意を抱くようになりました。

 

また、保元の乱後、後白河天皇の関白を引き継いだ忠通の子「藤原基実(もとざね)」の義兄で、後白河天皇の影響を利用し、権勢を蓄えつつある左兵衛督(さひょうえのかみ)藤原信頼信西近衛大将就任を希望します。しかし、信西は信頼が権勢を増すことを危惧し、その申し出を拒絶し、後白河天皇にもそれとなく忠告しました。

 

信西に望みを砕かれ、憤りを覚えた信頼は同じく敵意をもつ源義朝を誘い、密かに信西を打つ機会を狙うことになります。

 

これまで白河法皇鳥羽法皇は退位したにもかかわらず、天皇を差し置いて政治を行うといういわゆる院政を行い、天皇方との対立を生んできました。今回の保元の乱上皇方が完全に一掃され、ようやく、政治体制は後白河天皇に一本化され、本来の姿に戻る絶好の機会となりました。

 

ところが故鳥羽法皇の近臣でもあり、後白河天皇ご意見番である信西は故鳥羽法皇の第二妃である美福門院に養子・守仁親王天皇即位を要求され、即位して2年しか経っていない後白河天皇に譲位を迫りました。そして、保元3年(1158年)8月、後白河天皇上皇に退き、17歳の守仁親王二条天皇に即位したのです。天皇中心の政治はわずか2年にして崩れ、院政が復活し、再び、後白河上皇方と二条天皇方の対立が生まれてきます。

 

美福門院・二条天皇方の権力を抑えるため、後白河上皇は近臣の権中納言藤原信頼を院の軍馬の管理職に任命し、後ろ盾を強めました。また、源義朝は宮中の軍馬の管理職であるため、信頼と義朝の結び付きも強固になり、さらに、上皇の近臣の藤原家成源師仲(もろなか)が加わり、後白河院政方が形成されました。

 

平清盛は、娘を信西の子に嫁がせており、また武力的後継者ではあるが一方で信頼の子の信親にも娘を嫁がせており、状況を伺いながら中立を保っていました。

 

1159年(平治元年)12月9日深夜、清盛が熊野権現に参詣し、内裏の警備が手薄になった隙をついて、二条天皇方の大納言藤原経宗(つねむね)、検非違使別当藤原惟方(これかた)らの同調を受け、藤原信頼源義朝の軍勢は信西が居る後白河上皇の御所の三条殿を襲撃し、クーデターを起こします。

 

信西は逃亡しますが、山の中で源氏の追撃を受け、自害してしまいました。藤原信頼はあらぬことに後白河上皇だけでなく、二条天皇までも内裏に移して幽閉し、政権を掌握するという暴挙に出ました。

 

公卿の大半は信西に対しては反感を持っていたのであり、上皇天皇を幽閉するという信頼の暴挙に落胆し、二条天皇の近臣、経宗・惟方らも信頼に反感を抱いていきます。

 

清盛は、紀伊国でクーデターを知り、12月17日帰京しました。信西と親しかった内大臣三条公教は信頼の暴挙に反感をいだき、熊野詣でから急いで帰京した清盛を説得するとともに経宗(つねむね)や惟方(これかた)にも接触を図り、信頼排除を説得しました。

 

ここで平清盛はこの難局に運命をかけ、二条天皇方に組みすることを誓います。

 

平清盛二条天皇派らにより女装した天皇は内裏を脱出し、清盛の六波羅邸に迎えられました(当時の資料ではこの脱出劇を「六波羅御行」と呼び、脱出とは言っていないようです)さらに、後白河上皇仁和寺に脱出しました。

 

信頼・義朝陣営は天皇方からも上皇方からも見放されてしまいます。背水の陣で義朝軍は六波羅に攻め込み、長男の源義平(悪源太)ら東国武士が勇戦しますが、激しい合戦の末に数に勝る平氏の勝利に終わります。

 

信頼は仁和寺に逃げ込むが斬首され、義朝も逃亡先の尾張で討ち取られてしまいました。
清盛の継母の池禅尼の嘆願で義朝の子等の内、14歳の頼朝は助命され流罪となり、20年後の源氏挙兵まで伊豆で生活を送ることになります。 また、今若(後の全成「ぜんじょう」、阿野法橋)、乙若(後の義円)、牛若(源義経)の幼い三兄弟も助命されました。

 

策士信西を失った上皇方は大きな打撃を受け、一方、二条天皇についた平清盛により、信頼・頼朝軍に勝利し、経宗・惟方らは天皇の親政実現に向け積極的な行動に出るようになりました。

 

自らの院政を存続させるため、後白河上皇天皇方であるが上皇にも受けが良い清盛に命じ、経宗・惟方らを逮捕させ、流罪にしてしまいました。天皇方の政治体制一本化の実現化ならず、再び、主導権争いが続いていきます。

 

1159年平治の乱で宿敵源義朝を打倒した平清盛平氏の棟梁の地位を確固のものとし、戦功により、1160年正三位参議となり、武士として最初の公卿の座につきました。

 

後白河上皇藤原惟方に替え検非違使別当を清盛に命じました。これにより、これまで傭兵隊長に過ぎなかった清盛の私兵が太政官組織に組み入れられ公的な武力に変え、同時に天皇方から警察力を奪いとることになりました。

 

国家の軍がない当時の状況において検非違使の警察力だけがその機能を維持していたことを考えると清盛が検非違使の長に就任したことは大きな意味があります。

 

その後、清盛の出世は目覚ましく、7年後の1167年には政治体制の最高の官位である従一位太政大臣まで昇り詰めることになりました。

 

【参考】
1.「日本古典文学全集45 平家物語1」、市古 貞次、(株)小学館、1976年11月30日
2.「平家物語図典」、五味 文彦、(株)小学館、2005年4月1日
3.「日本の歴史6 武士の登場」、竹内理三、中央公論社、1965年7月15日
4.「戦乱の日本史(合戦と人物)3 源平の争乱」、第一法規(株)、1988年6月25日
5.フリー百科事典「ウィキペディアWikipedia平治の乱