2月の絵「平家物語 保元の乱で歴史の表舞台に躍り出た平清盛と源義朝」

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平家物語(*1)ではこれまで藤原一門が支配していた政治権力を平家一門が占めることになったいきさつについて、最初の2つの項で一之巻の「殿上の闇討」と「鱸(すずき)」で簡単に述べているだけでした。

 

まず、平清盛源義朝が歴史の表舞台に現れ、政治に発言権を持つようになった【保元の乱】について調べてみました。

 

1141年(永治元年)、鳥羽法皇(38歳)は皇后待賢門院(藤原璋子40歳)との子である崇徳天皇(22歳)を嫌い、退位させ、寵愛した美福門院(藤原得子24歳)との子である体仁(なりひと)親王(2歳)を即位させ、近衛天皇としました。

 

鳥羽天皇の時代、退位した後も権力を握っていた叔父の白河法皇は璋子を養女として育て、入内(じゅだい)させました。そして、白河法皇は忠実の子忠通との縁談を進めたが忠実は璋子の素行上の噂から辞退しました。白河法皇66歳の1118年、璋子18歳の時、16歳の鳥羽天皇中宮として入内し、翌年に顕仁(あきひと、後の崇徳天皇親王が生まれました。しかし、鳥羽天皇は顕仁親王白河法皇の子と疑い、嫌っていたといいます。一方、白河法皇は関白藤原忠実(41歳)の忠通(22歳)縁談辞退を怒り、内覧を辞めさせ、忠通を関白にしました。(*4))

 

一方、摂関家では摂政藤原忠通と弟の左大臣藤原頼長が当主の座を巡って争っており、父の元関白藤原忠実(ただざね)は、温和な長男の忠通を嫌い、計算高い弟の頼長を可愛く思い、頼長に加担します。忠実は鳥羽法皇に忠通の摂政解任を求めますが、法皇は翌年、忠通を関白、頼長を内覧に任命されると両者の溝はさらに深まります。

 

1155年(久寿2年)に近衛天皇が16歳で崩御すると崇徳上皇(36歳)は自分の子の重仁親王の即位を望むが、父の鳥羽法皇(52歳)は小納言の信西(49歳)が推す、待賢門院(54歳)の子である崇徳上皇の弟の雅仁親王(28歳)を後白河天皇として即位させました。崇徳上皇は重なる仕打ちに憤り・怨みます。

 

藤原忠通(59歳)は関白に再任されるが、頼長(36歳)は内覧を解任されたために憤慨し、頼長は新政権の後白河天皇側に怨みをもつ崇徳上皇側に接近していきました。

 

1156年(保元元年)7月2日、鳥羽法皇崩御すると、天皇家摂関家、武士団も二つに分裂し、一触即発の状態になりました。

 

7月8日、後白河天皇方の関白忠通(59歳)や信西(50歳)は源義朝源為義の長男33歳)に命じ、崇徳上皇方の藤原忠実(ただざね78歳)、頼長親子に政府転覆の陰謀があるとして東三条殿を占拠します。

 

東三条殿の占拠を知って危機感を抱いた崇徳上皇(37歳)は白河北殿に移ってこれを占拠し、崇徳上皇の元に藤原頼長(37歳)、源為義(60歳)、四男頼賢(よりかた)、為朝(17歳 鎮西八郎)、平忠正(清盛の叔父)等が集まります。頼長は大和の僧兵や武士たちに協力を求めようとしますが事態の急展開にほとんど兵を集めることはできませんでした。

 

天皇方と上皇方は賀茂川を挟んで対峙します。上皇方は白河北殿、天皇方の源義朝源義康平清盛(平信正の甥38歳)等は東三条殿に本陣を置き、後白河天皇は高松殿移動・待機します。

 

上皇方では為朝が高松殿を夜討ちして天皇を奪うことを提案したが、頼長が皇位をかけた戦いは白昼堂々と行うものだとしてこれを退けました。一方、天皇方の義朝は夜討ちを提案、信西及び後白河天皇はそれを許可しました。

 

7月11日未明、霧の立ち込める中の平清盛軍、源義朝軍、源義康軍は白河北殿へ奇襲をかけました。平清盛は17歳の鎮西八郎為朝が守る西門を攻めますが、為朝の強弓の前に撤退を余儀なくされ、代わって兄の源義朝が西門を攻めるがこれまた為朝の強弓に撃退されてしまいます。

 

義朝は後白河天皇の火攻の許可をもらい、白河北殿に放火するとともに攻撃を開始します。崇徳上皇や頼長は白河北殿の東門から脱出し、上皇方の兵も先を争って白河北殿から逃走、戦闘は終結しました。

 

崇徳上皇は覚性法親王(崇徳・後白河の実弟)を頼って仁和寺に奔り取り成しを依頼したが拒絶され、拘束された。仁和寺から讃岐に配流され、京に帰れぬまま生涯を閉じました。

 

藤原頼長は脱出の途中で頭に流れ矢を受け、奈良に逃れていた父忠実に保護を求めたが、拒絶され、死去しました。後白河天皇藤原忠実・頼長親子を謀反人として所領を没収し、藤氏長者の所領は忠通が継承することになり、摂関家と宇治殿や平等院などの没収は免れたのでした。そして、藤原忠実は子の忠通の功労に配慮して斬首は免れ、知足院への幽閉となりました。

 

子(長男義朝)が親(為義)と弟(四男~七男、九男)を斬首し、甥(清盛)が叔父(忠正)とその子等を斬首するという悲惨な結果になりました。死刑は数百年間行われていなかったが、実権を握った信西が復活させたものでした。

 

強弓で平清盛源義朝を悩ませた源為朝(八男)は逃れたが、捕まり、自慢の弓を射ることができないよう、左腕の筋を抜かれてから伊豆大島に流されたと言われています。

 

宮廷の権力争いに武力が使われ、町や村が戦場と化し住民を巻き込み拡大し、凄惨な殺し合いや死刑が執行されたことは、当時の人々に大きな衝撃を与えることになりました。

 

そして、御所の警備を行う低い地位におかれ、地下人(ちげにん)と言われていた武士がこの保元の乱をきっかけに表舞台に登場し、やがて武士が主役になる時代になっていくことになります。

 

藤原忠通のもとで摂関家は統一を回復しますが、その後、藤氏長者の特権とされた次期長者の選任権が天皇に奪われ、忠通の政治生命は絶たれ、さらに後白河天皇の側近藤原信頼とのトラブルで閉門処分によって失脚して、家督を長男近衛基実に譲ることになります。

 

1月の絵「平家物語 平清盛吾身の栄華」

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【参考】
摂政:天皇に代わって政務を行う役職
関白:天皇を補佐して政務を行う役職
内覧:摂政関白に準ずる役職
藤氏長者(とうしのちょうじゃ):藤原氏一族全体の氏長者のこと
藤原氏の代表者として、氏の政治・財務・宗教など全般に関わる。藤氏長者には藤原氏の政治基盤の維持、氏領荘園等の管理、藤原氏の氏寺興福寺や氏社春日社等の管理がある

 

1.「日本古典文学全集45 平家物語1」、市古 貞次、(株)小学館、1976年11月30日
2.「平家物語図典」、五味 文彦、(株)小学館、2005年4月1日
3.「日本の歴史⑦ 武者の世に」、入間田宣夫、(株)集英社、1991年12月11日
4.「日本の歴史6 武士の登場」、竹内理三、中央公論社、1965年7月15日
5.フリー百科事典「ウィキペディアWikipedia保元の乱