石油の歴史No48【メジャーから産油国に転換した石油の支配力】

イメージ 1

【米英の影響力の低下】
1960年代後半になると中東における米英二大国の影響力にかげりが見えてきました。アメリカはベトナム戦争の泥沼に陥っており、国内では反戦運動が起こり、国外の発展途上国では帝国主義新植民地主義、経済搾取を叫び反米運動が起こっていました。

 

一方、イギリスは1800年代から強大な力で中東に勢力を伸ばしてきましたが1960年代初期から経済の衰退が起こり、大英帝国の資産の処理を余儀なくされるようになりました。
1971年、湾岸の小国家を統合しアラブ首長国連邦を成立させ、これを最後にイギリスは一世紀にわたって駐留した軍を中東からすべて撤退させたのでした。

 

リビアとの取引で世界に注目されたアーマンド・ハマー】
黒海沿岸のオデッサからユダヤ系移民の子としてアメリカにわたった「アーマンド・ハマー」は父親のコネを使い、1921年の革命直後のロシアと貿易を始め、富を築きました。

 

そして、58歳の時、倒産しそうなオキシデンタル・ペトロリウム買収し、1961年、カリフォルニアで油田を発見し、利益を上げると、巧妙な取引とタイミングで次々と会社を買収し、会社を大きくして行きました。

 

1965年アラブ世界の北アフリカの端にあるリビアではオイルラッシュが起こっていました。
ハマーは国王イドリス一世の側近や力のありそうな人物に特別に手数料やコミッション料を支払い、歓心を呼び、リビア利権の入札で2番目に利権を獲得しました。

 

1966年には油田を発見し、1967年には日量7万5000バレルという世界でも有数の埋蔵量を誇る油田を掘り当て、オキシデンタル・ペトロリウムを世界有数のエネルギー会社に育てあげたのです。

 

リビアで勃発した軍事クーデター】
1969年9月1日リビア国王イドリス一世の腐敗政治に業を煮やし、ムハマル・カダフィ大佐率いる若手将校たちが軍事クーデターを起こしました。

 

カダフィは10年前、ナセルの著書「革命の哲学」とナセルのラジオ局「アラブの声」に共鳴し、ナセルのアラブ統一の夢にとりつかれるようになりました。そして、クーデターが成功すると、そううつ病と思われるほど感情の起伏が激しいカダフィは自分をアラブ世界の指導者であると考えるようになります。

 

彼は反イスラエル、反シオニズム、反西欧を掲げ、石油からの収入を背景に世界中のテロリスト集団のスポンサーとなっていき、テロ支援国家として欧米から非難を受けるようになっていきます。

 

クーデター後、カダフィは革命評議会の議長に就任し、防衛、石油など全権を掌握し、リビア国内の英米軍基地をすべて接収しました。

 

カダフィのメジャーへの挑戦】
カダフィはメジャー独占を打ち破り、自ら安く石油を生産して西欧市場で他の産油国と競争する覚悟でした。

 

リビアはヨーロッパの石油の30%を供給しており、スエズ運河は依然封鎖されていました。さらに1970年5月ペルシャ湾岸の油田からサウジアラビアを横断し、地中海に抜けるパイプライン「タップライン」にトラクターの衝突事故があり、サウジからの日量5万バレルの石油供給が停止したのです。

 

カダフィアメリカのオキシデンタルの攻略に乗り出します。1970年8月、リビア原油にまったく頼りきっているオキシデンタル・ペトリウムのアーマンド・ハマーを呼びつけ操業権の確保を交換条件にロイヤリティと税金の20%値上げのリビア協定に調印することを承諾させたのです。

 

このリビア協定は産油国政府と石油会社の力のバランスを決定的に変えていきます。リビアの勝利は実勢価格の下落を上昇に転じさせ、これまで下火になっていた各産油国の石油資源の権利と支配を求める運動に弾みがついてきたのです。

 

1970年イランのシャーはこれまで50対50の利益折半協定の改正を求め、コンソーシアムから利益配分率55%を承諾させました。1970年12月ベネズエラで開催されたカラカスで産油国側の最低利益配分率55%と決め、もし認められないならば供給を削減すると発表したのです。しかも交渉はOPEC全体でなく、国ごと、地域ごとに行うと決定したのです。

 

【メジャーから産油国に転換した石油の支配力】
もはやメジャーは共同戦線を張り対抗しなければ要求をはねつけることが困難になってきていることを痛感したのです。

 

石油企業24社が一体となりOPECを相手に交渉するため共同戦線を結成しました。これらの会社の取り扱う石油量は自由世界の五分四にあたる膨大なものでした。もし、カダフィに抵抗し生産量を削減されたならば削減分を他社が供給するという秘密協定を結んだのでした。

 

1971年1月15日会社側は「OPECへの手紙」を送りつけ、石油輸出国との総括的解決をつけることを要求しました。交渉はイランのテヘランリビアトリポリの二ヶ所で行うことになりました。

 

1971年2月14日に行われたテヘランでの交渉では20年前の利益折半協定は破棄され、新しい協定は産油国の最低取り分を55%と決定、石油価格を1バレル当たり35セント引き上げ、さらにインフレ対策として毎年値上げされことになりました。

 

かつてメジャーはセブンシスターと呼ばれ石油生産・販売に絶大の力を持ち、結束力を誇示していましたがこのテヘラン協定を境にイニシアチブは完全に産油国のものとなったのです。

 

テヘラン協定の数日後、地中海沿岸のOPEC諸国との交渉がトリポリで交渉が始まりました。
1971年4月2日トリポリ協定は公示価格の90セントも引き上げられました。テヘラン協定よりもはるかに大幅でした。この結果リビア政府は石油収入を50%も増やすことになりました。

 

テヘラン協定もトリポリ協定も5年間は変更しないという約束は幻となり、さらに産油国の要求がつきつけられるようになっていくのでした。
 
【参考】
(1)「石油の世紀」、ダニエル・ヤーギン(著)、日高義樹(他訳)、日本放送出版協会、1991年
(2)「20世紀の全記録(クロニック)」、小松左京堺屋太一立花隆講談社、1987年
(3)「中東&イスラームの世界史」、宮崎正勝、日本実業出版社、2006年