石油の歴史No57【イランの米大使館人質事件とイラン・イラク戦争】

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1979年2月イスラムシーア派最高指導者アヤトラ・ホメイニ師の帰国でパーレビ国王に任命されたバクチアル政権は崩壊し、バザルガン暫定内閣が誕生しました。

 

3月30日行われた国民投票の結果、賛成98%でイランはイスラム共和制移行が決定しました。これによりイランは近代化を否定し、コーランの教えを基本とするイスラム法に基づく国家と激変していきます。

 

1979年11月4日ホメイニ師神権政治に心酔するイラン人学生の一団がアメリカ大使館に乱入し、アメリカでガン治療中のパーレビ国王引き渡しを要求し、大使館員63人を人質にして大使館を占拠しました。ホメイニ師は彼らの行動を祝福したため、イラン世論は一気に対アメリカ強硬論に傾いていきました。

 

人質事件を知ったパーレビ国王と彼の側近はひっそりとアメリカを離れ、パナマに行き、エジプトにいきました。衰弱していたパーレビ国王は1980年7月誰からも注目されることなく死去したのでした。

 

勢いに乗ったイラン政府はバザルガン政権一派はじめ西側諸国や世俗勢力にくみする者たちを追放し、神権政治を進めて行きます。

 

女子や黒人職員が解放されたものの他の52人は依然、囚われ状態で、5か月目に入った1980年4月、カーター大統領は人質奪回作戦を決断しました。

 

4月24日夜、アラビア海原子力空母「ミニッツ」から、アメリカ軍特殊部隊が大型ヘリコプター8機に分乗しテヘラン南東330kmの砂漠に向いました。

 

しかし、3機が故障したため作戦を中止して撤退を始めたとき、激しい砂嵐に巻き込まれ、ヘリコプターと給油用輸送機C130が衝突し、2機とも炎上し、乗員3名と輸送機の5名が死亡する事態を引き起こしてしまいました。

 

この事件は世界のメディアに書き立てられ、イランは人質を分散してしまいました。人質奪回作戦が実施され、失敗したことで、石油市場は石油生産が再び落ち込むのではないかと買いが殺到し石油価格が上昇しました。石油各社は将来に不安を抱え在庫を増やし続けたからです。

 

その後、アメリカ政府は報復措置としてイランへの経済制裁アメリカ内のイラン資産凍結を発動し、膠着状態でしたがカーター大統領からレーガン大統領に交代した1981年1月、アルジェリア政府の仲介で経済制裁、資産凍結解除を条件に人質は1年2ヶ月振りに解放されました。

 

1980年6月OPECの会合がアルジェで開催され、サウジアラビアは石油市場での混乱を終了させ、価格を安定させるよう訴えました。ヤマニ石油相は1年前から需要を縮小させ、石油市場を低迷させることになる相次ぐ石油価格値上げ反対を主張していましたが他のOPEC諸国は聞き入れません。石油価格は1年半前の1バレル13ドルから3倍近い32ドルになっていたのです。第2次オイルショックが起こりました。

 

ヤマニ石油相の予言より早めの1980年夏、石油市場は低迷し始めました。

 

OPEC加盟国の多くは価格を安定させるため、生産量を10%落とすことに合意した矢先の1980年9月22日、またまた石油危機が懸念される事件が起こりました。

 

フセイン大統領が政権を握るイラク空軍のミグ戦闘機数十機がテヘランなど国内数十か所の空港を爆撃し、イラン空軍もこれを迎え撃ちました。4月以来、国境付近で小競り合いを続けていた両国の紛争は全面戦争に拡大していったのです。

 

地上ではイラク陸軍は国境を越え、イランに侵入し、町や軍事施設に激しい砲撃を加えました。そして翌日23日にはイラク空軍機はアバダンにある世界最大の製油所を攻撃を始め、その他多くの石油積み出し港と石油産業都市に攻撃を加えました。

 

これに対しイランもイラクの石油施設を攻撃し、ペルシャ湾からの石油輸出を完全停止に追い込み、さらにシリア経由のイラクの石油パイプラインを停止させました。

 

イラン・イラク両国の最大の懸案事項はシャット・アルアラブ川とイラク領内を流れるチグリス・ユーフラティス川流域のデルタ地帯の国境線領有問題でした。

 

シャット・アルアラブ川は約200km(120マイル)にわたり、両国の国境線を作っていました。イラクにとってこの河口の一部だけがペルシャ湾への唯一の出口に対し、イランは2200kmのペルシャ湾の海岸線を所有していました。

 

イラクフセイン大統領は1975年にイランの前政権バーレビ国王が行っていたクルド人支援を打ち切る条件に1913年定められた国境線であるイラン側川岸を川中央に変更する「アルジェ協定」に署名しました。しかし、クルド人を制圧するとアルジェ協定に署名したことを後悔し、パーレビ国王が去り、イラン革命の混乱に乗じ、国境線を取り戻そうとしたのです。

 

この戦争でイランは石油輸出は大幅ダウンしたものの広い海岸線のおかげで輸出は続けますが逆にイラクの石油輸出はほぼ全面停止になりました。イラン・イラク戦争の初期段階だけでOPEC加盟国全体の生産量の15%、西側諸国のそれの8%に当たる400万バーレルが消えてなくなったと言われています。

 

スポット価格も1バレル42ドルと過去最高の高値となり、再び石油危機の恐怖が広まりました。しかし、1979年のオイルショックからの教訓で各国政府は国際エネルギー機関(IEA)の方針に従い、石油会社が買いに殺到せず、在庫を放出するよう要請しました。

 

1980年12月インドネシアのバリ島で開催されたOPEC石油相会議で1バレル32ドルのサウジアラビア以外、他のOPEC諸国の石油価格を36ドルに引き上げました。第3次オイルショックが起こると思われました。

 

原油価格推移
しかし、欧米・日本の会社は政府の要請を受け入れ、市場は政府の方針以上に過剰反応を示し、需要が急落し、市場価格も下がり始めました。ヤマニ石油相が恐れていたことが起こりました。

 

1981年のOPECの生産量は1979年の生産量に比べ27%も落ち込み、1970年以来最低となりました。

 

1981年10月にサウジアラビアの石油価格をこれまでの1バレル32ドルから34ドルに引き上げる代わり、他のOPEC諸国は1バレル36ドルから34ドルに引き下げる合意がなされました。

 

石油需要の低下は景気後退したためでもあるが欧米・日本など石油消費国は第1次、第2次オイルショックの経験を教訓とした省エネなど節約対策も影響したと言われています。

 

やがて、OPECは需要と供給の法則にしたがい石油価格を下げざるを得なくなることになります。

 

1981年6月7日、イスラエル空軍機がイラクのバグダット近郊のオシラ原子力研究センターを攻撃し原子炉を破壊するという事件がありました。

 

イランとイラクの戦争はその後も膠着状態のまま続きます。

 

1983年3月2日イラク海軍がペルシャ湾にあるイランのノールーズ海底油田をミサイル攻撃し破壊した結果、大量の原油が流出しました。さらに4月12日も同様の攻撃を行い海洋汚染は広がりました。回収作業もままならず原油ペルシャ湾300km以上に広がり、沿岸には海洋生物の無残な姿が現れ、史上最大の流出事故となりました。

 

1980年9月22日に始ったイラン・イラク戦争は8年間も続き、大きな傷あとを残し、1988年8月20日に国連の安全保障理事会の決議を受け入れる形で停戦することになりました。

 

【参考】
(1)「20世紀全記録」、小松左京堺屋太一立花隆講談社、1987年
(2)「石油の世紀」、ダニエル・ヤーギン(著)、日高義樹(他訳)、日本放送出版協会、1991年