石油の歴史No35【イランによるアングロイラニアン石油の国有化】

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1935年ペルシャは国名をイランに改称し、その後アングロ・ペルシャ石油会社もアングロ・イラ二アン石油会社に改名しました。
1940年代のイランは政治、経済状況は混乱しており、外国の度重なる干渉を受け、イラン領土に対してソ連から直接圧力があり、経済的にはイギリスに大きく左右される状況でした。

 

1941年、イギリスはナチス・ドイツを支持していたイランの国王「レザ・パーレビ」を追放し、当時まだ21歳の息子「モハメド・パーレビ」に王位を継がせました。

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「モハメド・パーレビ」の王朝の基盤は心もとなく、政治は極右にイスラム原理派、左は共産主義者と左翼政党「ツデー党」が激しく権力争いを展開し、政治の外部では軍の幹部もまた権力掌握を狙っていました。

 

こんな中でも、共通しているのが外国人への憎悪でした。特にアングロ・イラニアン石油会社を持つイギリス人に対して、イランの資源を搾取し、自国より利益を享受しており、第二次大戦中は油田や製油所を守る名目で軍隊をイランに駐留させていたことにイラン国民の多くは嫌悪感を持っていたのです。

 

第二次大戦が終わると中東の石油が脚光を浴び、東西陣営の攻防の舞台になりました。ソ連の進出を恐れたアメリカは中東のアメリカ系石油会社と産油国の利益配分改定を支持します。

 

しかし、不毛の土地の中東から石油を採掘し、育てあげ中東にも利益をもたらしたイギリス、とりわけアングロ・イラニアン石油の会長「ウイリアム・フレーザー卿」や幹部たちは利益配分改定など眼中にありませんでした。

 

しかし、1949年イギリスはイランの反英感情がソ連の進出を招くことを恐れ、フレーザー卿を説得します。

 

フレーザー卿はロイヤリティの値上げと一時金を出す補足協定をイラン政府に提出しましたが、議会の石油委員会の委員長「モハメド・モサデク」はこの補足協定を激しく非難し、利権を取り消し、アングロ・イラニアン石油の国有化を要求しました。

 

1950年12月アラムコはサウジアラビアと利益折半協定を成立させるとようやく、アングロ・イラニアンも利益折半協定を持ち出しました。1951年3月、イランのラズマラ首相は会社の運営にはイギリス人技術者が必要であると議会で国有化に反対する演説を行いました。しかし、その4日後、過激派に暗殺されました。さらに、10日後に教育相が暗殺され、議会は石油産業国有化の決議を可決しました。

 

そして、1951年4月「モハメド・モサデク」は新首相に押され、5月1日より石油産業国有化法が施行され、アングロ・イラニアンの石油施設はイラン政府が設立したイラン国営石油会社(NIOC)に接収されました。

 

イギリス政府は制裁措置を発動し、本来、アングロ・イラニアンのものである石油をイラン政府から購入すれば、窃盗として訴訟すると国際社会に警告し、物資の禁輸措置を発動しました。イングランド銀行も金融と取引を停止しました。

 

イギリスはペルシャ湾に軍を派遣し封鎖し、アングロ・イラニアンはイランの石油を買う商社や石油会社を監視しており、イランは石油を売ることができず、経済的に苦境に陥りはじめました。

 

イギリスのイラン石油封鎖は朝鮮戦争が始まると、世界的な石油不足を起こし経済的混乱を招くと思われましたが、メジャー初め西側石油19社が石油施設の調整する委員会(国際石油カルテル)を作り、供給を増やしたため、石油不足による混乱は生じませんでした。

 

しかし、国有化前、イランの石油収入は外貨収入の3分の2、政府財政の半分を占めていましたがこの2年間、石油収入はゼロになり、1952年(昭和27年)、イラン経済は破綻寸前に陥りました。

 

イランの苦境を打開するため、モサデクは石油売り込みに奔走しました。
すると、国際石油カルテルが牛耳る世界石油市場に不満を持つ民族系石油元売業者の出光興産が動きだします。

そして出光興産がイギリスの石油封鎖網を越えイラン石油をした購入し、戦後初めて国際舞台に日本の名を馳せた「日章丸事件」を引き起こすことになります。

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