人間魚雷「回天特攻隊」(祖国と愛する者を守るため、命を投げ打った若者達)

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二週間前、ハワイの真珠湾の海軍基地内の博物館で日本軍の真珠湾攻撃について見学した後、山口県周南市に行ったら、徳山湾にある回天基地に行って見ようと思っていました。

真珠湾攻撃yaseta.hateblo.jp30年前、回天基地を訪れたとき、20代の若者が死を覚悟し、家族に宛てた遺書を読み涙が出て最後まで読めなかったことを思いだしたからでした。

3月20日山口県光市に住むY・Uさんと徳山駅新幹線口で待ち合わせ、人間魚雷の基地であった徳山湾にある大津島の回天基地跡と回天記念館を訪れました。

1942年(昭和17年)6月ミッドウェー海戦で大敗北を帰し、翌年から学徒動員が始まりました。その18年夏、23歳の二人の青年士官が戦局を好転させる手段として人間魚雷を提案しました。

1944年(昭和19年)9月“天を回らし、戦局を逆転させる”という悲願を込めた人間魚雷「回天」が誕生し、ここ大津島(おおづしま)回天基地が開設されました。
そして、11月に海からの攻撃「回天特別攻撃隊」の出撃が始まりました。
同じ年の10月には、空からの攻撃「神風特別攻撃隊」の出撃が始まっています。

祖国を守るため、尊い命を犠牲した特攻隊の中で神風特攻隊は華々しく、良く知られていますが回天特攻隊についてはそれほど知られていません。

回天特攻隊の人たちは18歳~28歳までの兵学校出身、学生、予科練出身の若者でした。
展示されている彼らの遺書を読むと、本当に日本の滅亡を危惧して、祖国、父母、兄弟、妻、子供等愛する人を守ることができるのは年齢的にも、体力的にも、技術的にも、私しかいないと死を覚悟して出撃していったことが心にしみじみと伝わってきて、涙なくして読めませんでした。

回天記念館はハワイの真珠湾の博物館に比べると小さく、訪れる人も少ないが、今日、日本がこのように豊かになり、安心して生活できるようになったのはある意味では彼らのおかげでもあるわけです。

彼らのような若者が自ら勧んで犠牲を払わなければならない社会環境を作ってはいけないと、息子達を思いながらつくづく感じました。

回天を提案した黒木中尉の辞世の句

人など誰か かりそめに
命すてんと望まんや
小塚が原に ちる露は
止むやまれぬ 大和魂

昭和19年9月6日徳山湾で回天試験操縦中殉職(24歳)

私(痩田 肥利太衛門)が生まれる1カ月前でした。

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