昭和天皇裕仁陛下が皇太子時代に学ばれた倫理御進講草案抄の著者「杉浦重剛」が評論した「鄭成功」について

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鄭成功と国姓爺合戦】

14年前、明治時代の教育者で評論家である杉浦重剛(じゅうごう)の「鄭成功」評論文を読んでいた時、「国性爺合戦」が鄭成功をモデルにした作品であることを初めて知りました。(参考1)

どんな関係があったのか国性爺合戦の内容はどうなのか、その時は資料の調査や小説・古典文学を読んでみる気持ちになりませんでした。

 

というのは、「明治名家古人評論」の文章は漢文調・古文調で難解だが、格調高く、歯切れの良い文語体で書かれた「鄭成功」や「上杉謙信」そしてアメリカ独立戦争に参加し、フランス革命の市民軍司令官になった「ラ・ファイエット」などの評論文の語彙を調べ、理解するのが精一杯で内容の詳細について調べることなく満足してしまっていたからでした。

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その後、鄭成功についての資料を調べたり、古典文学や小説を読み、ようやく鄭成功の生涯・業績や国性爺合戦について知ることができました。

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【文語体について】

明治名家古人評論が出版された明治32年(1900年)から言論界で「言文一致運動(1900~1910年)」が始まりました。

それまで文章用の言葉(文語体)と会話用の言葉(口語体)が分かれており、不便であるためこの年を境に統一に向けての運動が活発化しました。

そして、明治40年(1907年)にはかなりの小説・評論文などは口語体になったそうです。

しかし、新聞は遅れ、すべての新聞が口語体常態化したのは大正11年と言われています。(参考9)

あらためて整理した語彙調査説明書とともに鄭成功の評論文を紹介します。

 

【明治名家古人評論「鄭成功」  執筆者「明治時代の教育者・評論家「杉浦重剛」」

貝勒書(ばいろくしょ)をもって成功の父芝龍(しりゅう)を招き降す、

成功諫(いさ)めて曰く、父子に忠を教え貳(に)をもってするを聞かず、

且(かつ)北虜(ほくりょ)何の信(しん)か之(こ)れあらんと、

唯(ただ)此(この)一言先(ま)ず余(よ)をして無限の感あらしむ、

人生若(も)し此(これ)大不幸の境遇に陥いらば即(すなわ)ち如何(いかん)、

その父不忠不明の挙動あるに際し之を諫止(かんし)すること能(あた)わず、

且(か)つ其(そ)の社稷(しゃしょく)の存亡まさに旦夕(たんせき)に決せんとす、

之(これ)をかの平重盛の境遇に比すれば加うること更に一等なりとす、

其(そ)の志悲しむべき、其(そ)の進退去就に勇断を要する、

大丈夫(だいじょうぶ)たるものの苟(いやしく)もすべからざるざることなり、

而(しか)して余(よ)をもって之(これ)を見るに、

成功の此際(このさい)に処する大丈夫の挙たるに恥じざるものあるなり、

儒服(じゅふく)を焚(や)く忠孝両全の難(がた)き、

遂(つい)に此(この)挙(きょ)あるを致す亦(また)やむを得ざるなり、

然(しかれ)どもかの宋末における文天祥(ぶんてんしょう)(参考4)、謝枋得(しゃぼうとく)輩のなすところに比すれば亦(また)加うること一等なるものあり、

彼輩のなす所は唯(ただ)慷慨(こうがい)國(くに)に殉(じゅん)するに過ぎずして、

成功は則(すなわ)ち 数十年間明の正朔(せいさく)を弾丸(だんがん)黒子(こくし)の地に奉(ほう)ずるの基(もとい)を開けり、

是(こ)れただに父母不治の病(やまい)に薬を下(くだ)すのみならず、

その余命を延長するの功ありと云(い)うべきなり、

清の陳錦(ちんきん)の奴錦(どきん)を斬りて成功に降(くだ)るや、

成功則(すなわ)ち其奴(そやつ)を斬って以(もっ)て徇(したが)う、

之を漢高祖(かんこうそ)の丁公(ていこう)を戮(りく)するに比すれば更に加うること一等なりとす、

蓋(けだ)し成功儒服(じゅふく)を焚(や)き海に入りし以来は、

また往日の儒生にあらずして凜然(りんぜん)たる一大将軍也(なり)、

其の号令厳粛旗幟(きし)鮮明之を支那歴代の天子にして太祖太宗の廟号(びょうごう)あるものの挙動に比して優る所あるも劣るところあるなきなり、

之を要するに成功の挙動たる我が日本人の為す所に彷彿(ほうふつ)たりと云うべし、

成功の計略に至りても亦(また)非常なるものあるなり、

其の蘭人(らんじん)を追って台湾を取るに当りてや、

敢(あ)えて殺戮(さつりく)を加えずして之を送還し、

却(かえっ)て之を利用して沿海貿易の利を占有し、

以(もっ)て軍資を茲(ここ)に採るに到(いた)りては、決して尋常の手段とは云うべからざるなり、

その台湾を統治する手段に至りても亦(また)類推(るいすい)して知るべきのみ、

【参考】

1.杉浦重剛(すぎうらじゅうごう)

明治の教育者・評論家

東宮御学問所御用掛(倫理担当)嘱託

講義録「倫理御進講草案抄」、日本教育言論など著書・訳書・編書多数

安政2年(1855)近江国膳所滋賀県大津市杉浦町)生

明治9年(1876)イギリス留学(専攻化学、文部省留学生)22歳

明治13年(1880)病気のため帰国

明治14年(1881)文部省参事官兼専門学務局次長

大正3年(1914)東宮御学問所御用掛(倫理担当)

大正7年(1918)良子女王殿下の修身科を嘱託

大正13年(1924)68歳、逝去

東京大学予備門長、東京英語学校設立、称好塾、国学院学監、東亜同文書院

東宮御学問所御用掛(倫理担当)など歴任

2.「杉浦重剛」 明治ガイド 人物その他  https://meiji.bakumatsu.org/

3.「明治名家古人評論」 勢多 章之 ,博文館,1899.12.16(明治32年)

4.「文天祥(ぶんてんしょう)」 1275年4月元軍の南宋への侵攻に対し、義勇軍を組織し反抗したが敗れ、フビライ汗は彼の才能を惜しみ臣下になることを勧めたが文天祥は拒否し、処刑された。

5.「科挙Wikipedia

6.「日本の文学 古典編 41 国姓爺合戦・曽根崎心中」 市古 貞次,ほるぷ出版, 1987

7.「怒濤のごとく」,白石 一郎, 出版/埼玉福祉会, 2013.6.30

8.「海神の子」,川越 宗一, 文藝春秋, 2013.6.30

9.「明治・大正期の「読売新聞」文末表現の文体推移」,ヤロシュ島田むつみ,国際日本学研究論文集第13号,2021.2