習近平総書記、目指すは国際秩序構築そのモデルは明の建国と鄭和の大航海

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鄭和の大航海

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中国国家プロジェクト「一帯一路事業」

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明王朝の興起と末期の時代

習近平総書記は2021年7月2日の「中国共産党100年式典演説」の前半で  --- 

中国共産党の1世紀にわたる奮闘した一切の奮闘、一切の犠牲、一切の創造はまとめれば、中華民族の偉大な復興となる。

5000年続いた偉大な中華民族は1840年のアヘン戦争後の国家が辱められ、人民が苦しめられ、文明が失われて未曾有の災難に見舞われた。そのときから、中華民族の偉大な復興が中国人民の最も偉大な夢となった。

  ---  そして、演説の最後で

新しい時代の中国の若者は中華民族の偉大な復興の実現を自らの任務とし、時代に背かず、青春に背かず、党と人民の切なる期待に背かないようにしなければならない。

  ---  と「中華民族の偉大な復興」を22回も繰り返し、世界に向かって主張しました。

 

この演説全文を読み、中国共産党すなわち習近平総書記の夢は「中華民族の偉大な復興を2049年の中華人民共和国創立100年までに実現すること」であることがわかりました。

yaseta.hateblo.jp

そして、具体的な目標は2018年の外交方針であり、これまで周辺国や欧米とトラブルを起こしながらも強引に海外進出してきた理由も見えてきました。

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習近平政権の外交方針(2018年)

私がまとめた演説の超概略は中国共産党の業績と今後の推進項目を抜き出したもので習近平総書記の夢の背景が抜けていましたので、中華民族の偉大な復興のモデルになったと思われる中国歴史を調べてみました。

 

【モンゴル民族による中華民族の支配 】

1260年フビライは汗に即位し、国号を元に変え、モンゴル国内の問題処理を終えた後、1268年南宋攻略を再開しました。

1273年2月フビライ汗率いるモンゴル軍によって南宋防衛の要所襄陽(じょうよう)が陥落し、1275年2月家州の戦いにも南宋軍は大敗北し、南宋崩壊の危機が迫りました。

この国難に立ち上がったのが21歳で科挙の首席合格の経歴を持つ文武両道の若き英雄文天祥でした。文天祥は1275年4月吉州で義勇軍を組織し反抗を開始しました。

しかし、連戦連勝のモンゴル軍は長江を下り首都臨安(現在の浙江省杭州市)に迫りました。

 

1276年1月南宋はモンゴル軍に講和を申し入れますが拒絶され、首都臨安は陥落しました。

1276年2月文天祥は臨安でモンゴル軍につかまりますが揚州に送られる途中脱走し、反抗を続けます。

しかし、1278年12月潮州で再びつかまります。文天祥南宋への忠義と優れた才能を惜しんだフビライ汗は元に仕えるよう促しましたが毅然として拒否し、処刑されました。

そして、1279年崖の戦いで南宋は敗れ、9歳の9代南宋皇帝祥興帝 (しょうこうてい)が入水自殺し、1500年以上続く漢民族の朝廷南宋は滅亡しました。

 

漢民族の復興 *** 中華民族の偉大な復興のモデル *** 】

異民族のモンゴル族王朝「元」に漢民族支配下に置かれましたが89年後、農民上がりの朱元璋中華帝国の再建をスローガンに掲げ、反乱を起こし、モンゴル族を首都「大都(現在の北京)」から北方へ追いやります。

1368年集慶を占領し、応天府(後の南京)と改称、首都とする「明」を建国、皇帝洪武帝となり、異民族から覇権を取返し、漢民族の朝廷を再興しました。(南京:長江の出口上海から約300km上流の都市)

1398年の洪武帝朱元璋)の死後、2代皇帝建文帝(朱元璋の孫)と皇族間の跡目争い「靖難(せいなん)の変」で勝利した北平(北京)の燕王(朱元璋の四男)は1402年3代皇帝永楽帝即位しました。

 

鄭和の大航海 *** 一帯一路事業の一路のモデル *** 】

永楽帝は5回にわたり自ら軍を率いて万里の長城を越え、モンゴルを攻撃するなど対外遠征に積極的でした。中でも永楽帝色目人の宦官鄭和(ていわ)に命じ、1405~1433年7回にわたり大航海し、海のシルクロード朝貢航路)を開拓しました。

色目人:モンゴル人を除いた遊牧民西アジアイスラム人、鄭和は元時代雲南省に移住したイスラム人の子孫)

1405年に始められた鄭和の大航海(第7次航海は孫の宣徳帝時代)はバスコ・ダ・ガマがインド航路を発見した1498年より93年も早くインド洋、ペルシャ湾アラビア海そしてアフリカ東海岸に至る大偉業でした。

 

バスコ・ダ・ガマのサン・ガブリエル号は全長30m、幅5mだったのに対し、鄭和の船は全長130mと幅56mと巨大なものだったと言われています。

船団はこの巨大船数隻含む62隻の船と乗組員(将兵含む)2万7800人で構成され、医師や暦官まで同行し、蘇州太倉の劉家港(りゅうかこう)(長江の出口上海市北側の江蘇省蘇州市太倉市)を出発し、福州長楽の五虎門、泉州、チャンバ、ジャワ、スマトラマラッカ海峡を通過して、インド西岸のカリカットに寄港しました。

第3次航海までの最終寄港地は元の時代から進出しており、華僑が多く住むカリカットでした。

カリカットは綿布生産の中心地でこの都市名カリカットから綿布をキャラコと呼ぶようになったと言われています。

融和は既にカリカットの王に永楽帝詔勅と金印を与え明の冊封に組み込んでいました。

第4次以降の航海はさらにインド洋、アラビア海ペルシャ湾のチムール帝国のホルムズ、イエメンのアデン、さらにアフリカのモガディシオからマリンディまで至り、各地で金、銀、絹など与えて朝貢を促しました。

融和の遠征で明は30カ国余りから朝貢を受け、宝物や香料など大量に獲得しました。

 

アフリカ東海岸には古くから象牙、金など取引するムスリム商人が居住して、モガデシオ、ブラワト、マリンディなど小都市と港が作られていました。マリンディの支配者が派遣した使節団は艦隊と一緒に明帝国を訪れ、キリンを貢ぎ物として永楽帝に贈りました。

中国人は聖人が治める太平の時代に麒麟が現れると信じていました。

キリンの朝貢を受けた永楽帝は農民上がりの父(太祖洪武帝)からくるコンプレックスが消えるとともに威信が付き、政治的基盤が固まったと言われています。

 

鄭和は1433年、第7次航海の途中にカリカットで病死したと言われています。1498年バスコ・ダ・ガマが希望峰を回って最終目的地カリカットに着いた時、鄭和は既に65年前に亡くなっていたのです。

 

鄭和の大航海は航海の規模、日程、各国家の交易状況など多くの記録を残しました。

第7次航海の航路図を描いた「鄭和航海図」には南京からアフリカ東海岸までの地名、港、星座、暗礁、航路など航海に欠かせない詳細事項を正確に記録されていました。

融和の大航海はその距離、帰還、船の大きさと数量、積載量、人員、船団組織、航海術など15世紀の世界航海史上の最高峰でありました。

 

もちろん一帯一路事業の一帯のモデルは、はるか漢の時代西暦100年頃から始まり、明の時代も続く、中東、アフリカ、ヨーロッパと中国各地を繋ぐ交易の絹の道(シルクロード)です。

 

習近平の夢は2049年の建国100周年までに世界秩序を変えること?。】

中国共産党すなわち習近平総書記が言いたかったことは ---

 

中国5000年の歴史の中で元や清の建国、アヘン戦争日中戦争朝鮮戦争の事件により漢民族は、異民族に支配、介入、内政干渉などの屈辱を受けたが漢民族は異民族を追い返し、名誉を取り戻した。

しかし、1921年の中国共産党創立以来から続いている屈辱は欧米日本などの資本主義国の主導による国際秩序に支配されていることであり、戦いは現在も続いている。

中国共産党創立から100年かけてようやく、政治力、軍備力、経済力が欧米に並ぶことができ、未来への展望が見えてきた。

これから2049年の建国100周年までに欧米を追い越し、世界秩序を変える(世界覇権掌握)ため力強く推進しなければならない。

これが成就できたときこそ、中国人民が抱き続けている中華民族の偉大な復興の実現である。

 

--- と素人の私は推察しました。

 

【中国の歴史の参考】

1.「中国共産党100年式典演説全文」、中華人民共和駐日本大使館HP、2021.7.2

2.「日本の文学 古典編 41 国姓爺合・曽根崎心中」、市古 貞次、ほるぷ出版、 1987

3.「すぐわかる中国の歴史」、小田切 英、宇津木 章、(株)翔文社、2003.5.1

4.「教養の中国史」、津田資久、井ノ口哲也、ミネルヴァ書房、2018.8.20

5.「一冊でわかる中国史岡本隆司、(株)河出書房新社、2020.8.20

6.「中国の歴史を知るための60章」、並木頼壽、杉山文彦、(株)明石書店、2011.1.31

7.「詳説台湾の歴史 台湾高校歴史教科書」、薛 化元、訳 永山英樹雄山閣、2020.2

8.「中国歴史地図」、朴漢済、訳 杉山文彦、(株)明石書店、2011.1.31

9.「鄭和の南海大遠征」、宮崎 正勝、中央公論社、1997.7

10.「物語中国の歴史」、寺田 隆信、中央公論社、1997.4

11.「世界歴史体系 中国史 4 」、松丸 道雄、山川出版社、1999.6