中国殷暦から遅れること3000年、ようやくできた江戸大和暦

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古代の人々は生活をしていくうちに、お日様(太陽)が顔を出し、明るくなると狩猟など活動し、太陽が沈み暗くなり、そしてまた太陽が顔を出し、繰り返されることを知り、この1循環を1日する「日」という単位を作りました。そして、土地に定住し農耕を営み、種まき・開花・収穫の時期から季節の移り変わりを知り、これを1年とする自然暦が生まれました。

 

やがて、お月様が地球の影になり、暗くなる新月(朔)・上方部分が光る上弦の月・全体が光る満月・下方部分が光る下弦の月・そして再び新月(朔)と月が地球を一巡する日数が約30日間であることを知り、30日をひと月(1朔望月)とする単位「月」が生まれました。
しかし、1朔望月は29日と半日という端数がつき、整数の日数にならないため、端数を切り捨て、切り上げして小月29日と大月30日に分け、これを交互に繰り返した12ヶ月354日を1年としました。このように月の運行に基づいた暦を太陰暦といいます。

 

太陰暦は29日と30日をつくり、整数である暦日を刻んで行きますが、実際の月の運行は暦日よりわずかですが端数があるため、それが積み重なり、数年経つと暦日と新月・満月の日がずれてきます。そこで、時々、積み重なった端数を閏日として小月29日に加え大月30日にして1年を355日した閏年を作り調整しました。

 

太陰年の1年354日は太陽年の1年365日四分の一より約11日短いため、日が流れて行くうちに季節がずれていきます。太陰暦の季節のずれを太陽年に対応させ調整した暦を太陰太陽暦といいます。この季節のずれの調節の仕方によって世界では数多くの太陰太陽暦法が生まれてきました。

 

中国最古の暦は紀元前1700年~紀元前1100年(殷の時代)の殷暦で十干と十二支を組み合わせた六十干支を日付に用いられ、1ヶ月30日、2ヶ月で六十干支が一巡するようにつくられていました。殷暦は1ヶ月が29日と30日があり、調整年として13ヶ月の閏月があったことから殷は既に高度な暦法をもって、太陰太陽暦を作っていたのです。

 

十干十二支 

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中国では皇帝は天命を受け即位すると見なされているため、新王朝の発足とともに天の意思の現れ(天体・自然現象)を民に知らせ・与えるとして暦を作られました。新しい暦法は皇帝の権力の象徴でもありました。

 

紀元前700年頃、中国の太陰太陽暦は季節のずれを調整するため、冬至から次の冬至までの1太陽年を二十四等分してそれぞれ季節を表す名称を付け二十四節気をつくり、太陰太陽暦の1年としました。

 

そして、閏月を挿入する時期を決めるため、二十四節気の偶数番目を中気と名付け、設定しました。中気から中気までの約30日が1朔望月より長いことから、端数が積み重なり、中気を含まない月が32ヶ月か33ヶ月に一度現れて来ます。そして、この月を閏月として挿入することにより3年に一度、13ヶ月になる年をつくり、季節のずれを調整したのです。

 

魏志倭人伝に見られるように日本の暦は自然暦を使っていましたが553年編纂された日本書紀太陰太陽暦が現れたことから、日本で太陰太陽暦が初めて使用され始めたのは553年の欽明天皇の時代でした。欽明天皇百済から招聘した暦博士や易博士によって、445年宋王朝作成の元嘉暦(げんかれき)と暦法を記した暦本を伝えられました。しかし、当時の日本は暦を編纂する知識はなかったため百済暦博士が編纂しました。

 

700年頃になると日本でも暦博士、陰陽博士、天文博士が誕生し、701年に制定された大宝律令の施工規則により朝廷に天文・暦を管轄する陰陽寮が設置されました。しかし、日本の暦博士は一から暦を作る技術がなかったため、中国の暦本を参照しながら暦日を計算し、暦を編纂・作成しました。

 

日本に1685年までに宋の元嘉暦(げんかれき)、唐の麟徳暦(りんとくれき)、大衍暦(だいえんれき)、五紀暦、唐時代の宣明暦(せんみょうれき)などが伝来しましたが日本の暦すべてこれらの暦法を参照して編纂していました。894年の遣唐使が廃止になり、中国との外交が途絶えたため、宣明暦は860年余りの長い間、使われ続けました。

 

江戸時代の1670年頃になり社会が安定してくると日食や月食の予報がしばしば外れることに庶民から批判の声が上がり、問題視されるようになりました。

 

江戸幕府囲碁の教授(碁方)として仕えていた渋川春海は自らの天文観測と西洋の天文学の知識から中国の暦は経度を基準とした暦を作っているため、中国と日本の経度の差が日本の日食・月食予報をはずしていることを発見したのです。そして、ついに1685年日本の風土に合う大和暦と呼ばれる国産の暦法「貞亭(じょうきょう)暦」を作り出しました。

 

その後、幕府の天文方により宝暦暦、寛政暦、天保暦がつくられ、改暦されていきました。天保暦は西洋天文学の知識を取り入れ、太陰太陽暦としては完成度が高いと評価されています。そして、明治6年(1873年)に太陽暦へ改暦が行われ、太陰太陽暦の歴史は幕を閉じることになり、それまで使われていた天保暦は旧暦と呼ばれるようになりました。

 

【参考】
1.「日本の暦と和算」、著者「中村士(つこう)」、青春出版社
2.「日本の暦-旧暦と新暦がわかる本」、岡田芳朗、(株)新人物往来社、2009年12月16日
3.「天地明察 小説」、冲方 丁、角川書店、2011年11月9日
4.「天地明察 映画DVD」、冲方 丁、監督 瀧田洋二郎、角川・松竹、2012年9月15日
5.「日本史年表・地図」、児玉幸多編、吉川弘文館、2013年4月1日