西暦日付から六十年干支日付への変換式作成

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現在、年を表現している十二支を干支(えと)としていますが、本来の干支は字のごとく、年とは関係なく、十干と十二支を組み合わせた60周期の数を表現する六十干支を指していたそうです。

 

紀元前(BC)1400年頃の殷の時代に使われており、戦国時代(BC403~221年)になり、陰陽思想と五行説が統合され陰陽五行説として体系化され、その時、十干十二支に陰陽五行思想が入り、数や日付だけでなく、季節、時刻、方位、占いなどに利用されるようになりました。
(陰陽思想は紀元前2000年頃、五行思想は紀元前1900年頃と十干・十二支より古く、既に融合していたとも考えられる。)

 

十干と十二支が日本に入った時期は百済を含め大陸から儒教、仏教、易、暦、医、天文、機織りが書物や物品とともに伝来(参考6)した飛鳥時代の紀元後(AD)400~550年と思われます。
というのは、それらの書物は漢文、漢数字、十干、十二支を使って記述されていたと思うからです。

 

明治維新後、旧暦から新暦に替えてからは六十年干支表現の日付は目にしなくなりましたが壬申(じんしん)の乱(672年)や戊辰(ぼしん)戦争(1868年)のように事件が起きた年の干支年を付けているものを目にすることがあります。

 

しかし、明治維新から過去にさかのぼっても日付は元号とともに年、月、日を漢数字で表現しており、奈良時代の720年に作られた漢文の「日本書紀卷第卅の持統天皇」の章(参考4)でさえ「朱鳥元年九月戊戌朔丙午」、「冬十月戊辰朔己巳」、「二年春正月庚申朔」など年と月は漢数字になっています。

 

(朱鳥元年9月の戊戌(つちのえいぬ)の日を朔(新月、第1日)とする丙午(ひのえうま)の日、9日)、(元号は朱鳥が正しい、朱雀でない)

 

また、鎌倉時代の1200年頃作られた漢文の「吾妻鏡第三の元暦元年正月」の章(参考5)には平将門の乱(939年)が起こった期日「天慶三年庚子(かのえね)正月十八日」が記されていますがすべて漢数字になっており、干支は年の補完になっています。

 

これは、既に中国・朝鮮では日付表現の主体は漢数字になっており、漢数字も十干十二支も日本に同時時期に伝わり、表現し易い漢数字が使われたと考えられます。

 

現代では十干十二支による日付を知ったとしてもほとんど役にたちませんが、日付の六十年干支による表現は起点となる西暦年月日と対応する干支年月日が分かれば干支年は60年、干支月は60カ月、干支日は60日の繰り返しになるということから、西暦日付を新暦のまま干支日付に変換する計算式を作ってみることにしました。(西暦日付が旧暦日付の何時に当たるかの暦計算は力不足なので省きます)

 

繰り返しと検索機能はExcelが得意とするところですが、新暦の日付計算は1900年1月1日以降という制限条件があります。

 

明治元年(1868年)、反政府幕府軍と新政府軍の間で戦争が起こりましたが、この戦争は1868年の戊辰(つちのえたつ)の年に起こったことから戊辰(ぼしん)戦争と呼ばれています。
西暦「1868年」に対応する干支年「戊辰(つちのえたつ)」を60年周期で回し、起点を「1900年」の「庚子(かのえね)」にして「六十年干支表」作成しました。

 

つぎに起点となる干支月と干支日について、私は力不足なので既に西暦日付から干支日付の変換式を作っておられる「かわうそ@暦」氏作成の「こよみのページのHome-Page」(参考2)の計算ページから算出させていただきました。

 

そして、起点を「1900年1月」の「庚子 年 戊寅(つちのえとら)月」とした「六十カ月干支表」、起点を「1900年3月1日」の「庚子 年 庚辰 月 癸酉(みずのととり)日」とした「六十日干支表」を作成しました。

 

干支年の換算:起点と求める西暦年の差分を六十年で割り、余った数で六十年干支表を検索してマッチした干支年を抽出する。
干支月、干支日の換算も干支年と同様にして換算します。
上記が「西暦日付から干支日付への換算」のサンプル画像です。

 

【蛇足】
2019年2月14日、明治5年(1872年)に作られた日本最初の戸籍「壬申(じんしん)戸籍」がヤフーオークションに出品・落札され大騒ぎになりましたが、静岡地方法務局が落札者から回収して一件落着したというニュースが読売新聞の2月15日の紙面に載りました。

 

なぜ147年前の戸籍の流出が大騒ぎになったのかそれは次の理由によるものでした。
明治政府は日本の近代化に向けて、全国民の戸籍を記載した壬申戸籍を作りました。
この壬申戸籍は当時の身分、職業、犯罪歴が記載されているため、人権侵害当たるとして1968年政府は封印し、閲覧禁止としました。
今回、問題になったのはこの政府が封印した戸籍が流出したからでした。幸い、公開に至らず回収できましたが、政府は流出した原因の追究を始めたそうです。

 

この戸籍が作られた1872年は六十年干支の壬申(みずのえさる)年に当たるため壬申(じんしん)戸籍と呼ばれるようになったのです。

 

【参考】
1.「十干十二支」、フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia
2.「こよみのページのHome-Page」Webサイト、作者「かわうそ@暦」、http://koyomi8.com/
3.「古事記(原文)の全文検索」Webサイト、http://www.seisaku.bz/kojiki_index.html
4.「日本書紀(原文)を全文検索」Webサイト、http://www.seisaku.bz/kojiki_index.html
5.「吾妻鏡第三 元暦元年正月」96頁、尚絅大学教授武田昌徳氏提供資料、2010年
6.「世界史年表・地図」、亀井高孝他編、吉川弘文館、2010年4月1日
7.「日本史年表・地図」、児玉幸多編、吉川弘文館、2013年4月1日
8.「陰陽五行でわかる日本のならわし」、著者「長田なお」、(株)淡交社、2018年12月13日