元号が一時断絶した原因を探ってみる

2019年5月1日徳仁(なるひと)皇太子が第126代天皇に即位され、元号が令和となり、新しい時代が始まりました。

初代天皇縄文時代末期の紀元前660年に即位した神武天皇であると日本書紀に記されており、それから2019年までの2679年間で126人の天皇が即位しています。
いろいろ説はありますが紀元前660年から西暦300年後半までに即位した天皇については史実としては不確かであり、紀元後の720年(奈良時代)に編纂した日本書紀の編者の創作によるもの思われるので、日本神話の一部として理解したほうが良いと言われています。

実在した天皇は「日本史年表・地図(参考5)」を見ると古墳文化最盛期を迎え、百済高句麗から使者がきて交流が始まった西暦300年後半の第15代応神天皇からと思われます。

古代より年号は天皇の治世に合わせ天皇名で表していましたが、645年に中国の元号制度を採用し、最初の元号として「大化」を制定しました。そして大化の時代に縁起を担ぎ「白雉」と改元した後、元号は50年ほど断絶しましたが、その後は断絶することなく、令和を迎えることになります。

なぜ、最初の元号大化から白雉、朱鳥と3つ元号の後、断絶してしまったのか当時の社会情勢などから原因を探ってみました。

【古代国家から律令国家まで超概略】
538年(一説552年)に百済から仏教が伝来、その後、遣隋使の派遣や朝鮮との交流が行われるようになり、渡来人や留学僧の科学・律令・政治・律令などの知識・書籍から百済や隋を手本とする国作りが始まります。

618年隋が滅亡し、唐が勃興すると630年から遣唐使を派遣して唐の進んだ情報を積極的に採り入れ、国家基盤を安定のため、法整備(律令)を推進します。

645年の皇位継承争い(乙巳の変大化の改新)、660年百済が滅亡、663年百済復興のための倭と百済連合軍が唐・新羅連合軍に戦いを挑むも大敗(白村江の戦い)、668年中大兄(なかのおおえの)皇子が第38代天智天皇に即位すると国の防御や国家基盤の安定のため天皇への集権化と律令国家を目指していきます。

671年天智天皇が病没すると天智天皇の子・大友皇子(第39代弘文天皇と称号を追号)と天智天皇の弟・大海人(おおあまの)皇子の皇位継承争い(壬申の乱)が起こり、大海人皇子が勝利し、第40代天武天皇に即位し、飛鳥浄御原(あすかきよみはらぐう、藤原宮)に遷都します。

681年天武天皇は飛鳥浄御原律令の編纂を開始し、689年皇后の第41代持統天皇が令を先に完成させました。

697年持統天皇から譲位された第42代文武天皇は701年に律6巻、令11巻の法典「大宝律令」を完成させました。長年の国家事業である大宝律令ができたことで律令国家の基盤が築かれたとして701年を大宝元年とする元号が設定されたのです。
元号が一時途絶えた理由(推定)】
中国の皇帝が自分の治世や権威を象徴するために作った元号制度を日本が採用し、大化の改新が始まった645年を「大化」制定したのが元号の始まりです。

645年から701年までの56年間で7人の天皇が即位していますが年表1に表すように元号が途切れました。 原因は初めて作成した元号制度は不備な点があり、また、政治が不安定な時期であったためと考えられます。

701年に大宝律令の施行によって種々の律令が権威づけられ、追加・改定して政治の安定化とともに定着して行ったと思われます。

そして、701年の大宝から2019年の令和までの1318年間、元号は途絶えることなく、245の元号が使われてきました。ちなみに最初の元号の645年の大化から2019年の令和までの1374年間では元号は248使われてきました。

【参考】
(1)「大化改新と古代国家誕生」、吉村武彦編、新人物往来社、2008.6.17
(2)「白虎と青竜 中大兄と大海人攻防の世紀」、小林惠子、文芸春秋
(3)「天武天皇持統天皇 律令国家を確立した二人の君主」、義江明子山川出版社
(4)「日本歴史体系2 律令国家の展開」、井上光貞他、山川出版社、1995.11
(5)「日本史年表・地図」、児玉幸多、吉川弘文館、2013.4.1