カレンダーの絵は2009年に作ったものを載せていますが以下の内容と関係ありません。
1月5日の「寒の入り」から19日までの小寒と1月20日から2月3日の立春前日(節分)までの大寒の30日間は「寒」と呼ばれ1年で寒さが最も厳しい時季です。
(二十四節気の節気である小寒、大寒、立春、春分、秋分、夏至、冬至などはその瞬間を指すこともあればそこから始まる期間を指すことがあります。)
2002年1月の暦
私が山形県小国町の小学生(昭和32年以前)の頃、 大寒の時季の1月末から10日間前後の寒休みがありました。寒の1月後半から本格的に雪が降り続き(根雪になる)、積雪1~2mになり、さらに吹雪になる日が多くなるため、町外れの集落はもちろん町内の小学校生も通学するのが困難になるからです。
(私が中学に通う頃は寒休みがありませんでしたが寄宿する生徒がおりました。昭和32年以前中学生にも寒休みがあったかどうかはわかりません。いつか、確認しようと思います)
また、この時季に旧の正月になり、町内では餅つきや「さいず焼き」など正月行事をやっていました。
私は終戦1年2カ月前の昭和19年10月生まれだが戦争はまったく知らないので我らの世代を含め、戦後生まれの世代は親や社会に残る戦争の傷跡や古い体質から離れ、アメリカなど西洋文化にあこがれ始めており、この頃から旧暦の慣習などが急速に廃れていき、明治から続いた旧暦は新暦に一本化されていったような気がします。
確か、当時私の町では旧正月は大寒の時季に合わせ、ほぼ決まった期日に行っていたと記憶していますが、中国では正月行事は現在も旧暦を主体にしていますので旧暦の1月1日(春節)は毎年一定ではなくズレて、西暦の1月末から2月初めのいずれかの期日になります。
なぜ、旧暦の1月1日は新暦の1月1日より20日~40日後の間の期日になり、一方で大寒、立春、春分、秋分、夏至、冬至は新暦に対応しているかといいますと理由は以下になります。
太陰暦は月の満ち欠け(約29.5日)の日にちを1朔望月(29日or 30日)として12朔望月354日を1年とします。
太陽暦は地球の太陽を一周する日にち(太陽年約365日)を1年とします。
太陰暦は太陽暦(新暦)より11日少ないので新暦の1月1日より11日早く旧1月1日になります。
2年目の太陰暦の1月1日は新暦の1月1日より22日早くなり、3年目には33日早く来ることになります。
太陰暦を使って生活していると季節が次第にズレてきます。そして、3年後には1カ月以上ズレて暦の日付に対しても季節がズレ、季節感はなくなり、農作業や生活に支障をきたしてしまいます。
そこで、3年に1回の1朔望月を挿入し1年13カ月のうるう年を設け日付を調整し、季節を感じながら生活するため、季節の指標として地球の太陽一周する1年を24等分した期間に季節名を設定したのが二十四節気だったのです。
うるう月と二十四節気の例
中国では3000年以上も前、既に、太陰暦の欠点を補うため、太陽の地球一周期の太陽年を採用し、改良した太陰太陽暦を使っており、日本では飛鳥時代に中国から伝わり、日本用に一部直して使い続けました。
江戸時代に初めて国産の大和暦の貞享暦(太陰太陽暦)が作られ、それを含め4つの暦が作られ、4つ目が天保暦で明治時代に廃止され、天保暦(太陰太陽暦)は旧暦と呼ばれるようになりました。
以上の結果、旧暦の1年が始まる旧1月1日(春節)は毎年違った新暦日付になり、1年の季節の始まりである旧暦の立春(第一節気)は太陽暦に基づいて作られた二十四節気の季節であるため一定した新暦日付なるわけです。
太陰太陽暦である旧暦の1月1日が現在、新暦の1月1日の20日~40日後に来ている理由として旧暦が作られて3000年以上日付は刻まれてきており、その間、うるう月の挿入する場所が暦法によって変わり、また暦法が改良され、変遷した結果だろう推定していますが正しい理由は浅い調べなので掴めていません。