「いけずき(池月、生食)」の佐々木高綱と「する墨(磨墨)」の梶原景季による宇治川の先陣争い

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平家物語は子供の頃、絵本やマンガを見たり、その後は映画やテレビ見たり、小説などを読んだりましたが、これまで、ほとんど関心をもつことはありませんでした。

 

しかし、3年間で6人の身内の死に会い、平家物語の冒頭のくだり「祇園精舎の鐘の声---------」に象徴される平家物語に関心を持つようになりました。
 
岩波新書平家物語を買い、拾い読みをしていたところ、野田市の南図書館で「平家物語を楽しむ会」の会員募集を見つけ申し込みました。

 

5月3日(土)10時30分~12時、野田市旧市街の興風図書館会議室で開かれた会に出席しました。平家物語は既に1年前から始めており、現在、第2冊目に入り、内容は半分以上進んでいました。

 

講師は茨城女子短期大学教授「武田昌憲」先生でテキストは新編日本古典文学全集(46)平家物語(2)、校注・訳 市古貞次、小学館です。開催日は毎月第一土曜日で平成21年4月までの予定です。

 

今回は平家九之巻の「生ずき(いけずき)の沙汰」についての解説でしたがこのあとの「宇治川先陣」は「宇治川の先陣争い」として子供の頃から絵本や漫画で見たことがあり思い出しました。

 

【「生ずき(いけずき)の沙汰」と「宇治川先陣」の概要】
1184年(寿永3年)、木曾義仲木曽義仲、よしなか)は平家追討を進め、上洛して一年目になります。義仲軍の雑兵は都の民から略奪するなど狼藉を繰り返しますが戦勝軍の権利として義仲は取り締まろうとしません。

 

また天皇を立てるにあたっても義仲と後白河法王の意見は違い、後白河法王はついに木曾義仲木曽義仲)を見放し、ひそかに源頼朝(よりとも)に使いを送り、義仲追討の命をくだしました。それを知った義仲は法王の御所を襲い火を放ちました。

 

源頼朝源範頼(のりより)と源義経(よしつね)の総勢6万の兵を差し向けます。

 

鎌倉出発の際、頼朝は名馬「するすみ」(する墨、磨墨、摺墨などの漢字表現がある)と「いけずき」(生ずき、生食、生喰、池月などの漢字表現がある)のうち、「するすみ」を梶原源太景季(かげすえ)に「いけずき」を佐々木四郎高綱(たかつな)に与えました。

 

正月20日宇治川をはさんで義仲軍と義経軍が対峙していました。頼朝から名馬をさずけられた梶原景季(かじわらかげすえ)と佐々木高綱(ささきたかつな)は宇治川対岸の敵陣目指し、先陣争いをします。

 

佐々木高綱より先を行く梶原景季をみて、佐々木高綱は一計を案じ「梶原殿、この川は西国一の大河でござるぞ、馬の腹帯がゆるんでみえますぞ。お締めなされ」と叫びます。

 

梶原景季はそんなこともあろうと思い、馬の腹帯を締めようとすると、そのすきに佐々木高綱は追い抜いていきました。

 

しまったと思った梶原景季は「やあ佐々木殿、手柄をたてようとして思わぬ失敗をなさるなよ。水の底には大綱があるだろう。」といったので佐々木高綱は太刀を抜き大綱を切りながら進みます。

 

名馬「いけずき」に乗った佐々木高綱は一直線に宇治川を渡り切り、一番乗りの名のりをあげ、味方の士気を上げ、勝利に貢献したのでした。