平時忠の末裔「時国家」を訪ねて

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小さい頃から母は平時忠の子孫である能登の時国家とは関係あるということを折に触れ、話してくれましたが知識も乏しく、平時忠がどれほどの人物であるかなどほとんど知らず、聞き流していました。3年前、野田市報に載った「平家物語を楽しむ会」の入会募集が目にとまり、母の言葉を思い出し、入会しました。

 

会は月1回ですがそれでも1年くらい経つと、平家物語に登場する主な人物や流れの概要がわかってきました。

 

ある日、解説していただいている武田昌憲先生(現在、尚絅(しょうけい)大学教授、熊本市)が能登の時国家を訪問した話をされました。先生とは親しくなっており、雑談しながらの帰り道、私はなにげなく、時国家と遠い親戚にあたると話しました。先生はちょっとびっくりされたので私もあわてて生前、母親が良く話していただけで詳しくは知りませんと言ってしまいました。

 

先生は長年、平家物語を研究されてきただけに先生の反応に私もその意味の大きさを感じ、なんらかの証拠を示さないとかつての私同様、他の人に理解してもらえないと感じました。母親から話を聞こうと思っても既に母は亡く、聞くこともできません。そこで父の死亡時、相続税申告書作成ために入手した戸籍謄本を基に祖父と母の実家や本家を含む概略家系図を作成しました。

 

一方、平家物語への興味も湧いてきて、吉川英治の新平家物語や歴史資料を読み、平家物語本の記述と史実を比較して知識を増やしました。平成22年1月より平家の台頭から滅亡までを毎月1回マンガと文をブログに書き、年末にその12枚のマンガを使いカレンダーにしようと思い、開始しました。
 
平成22年6月、父母の七回忌があり、山形県小国町の実家に帰ったとき、親戚や叔母に時国家との関係を聞き、家系図を修正・追加しました。叔母は時国家の現在の当主、25代健太郎氏の母親「あや子様」に山菜を送ったりして親交をはかっており、平成21年10月に能登の時国家を訪問したと話してくれました。

 

故時国家24代恒太郎氏の夫人「あや子様」の実家は上杉藩の米所と呼ばれた「米沢盆地」の山形県飯豊町にあり、豪農「渡辺六郎兵衛家」です。

 

あや子様の母親は酒田の本間様と並び、その昔、日本でも上位の富豪に入った「関の三左衛門」と呼ばれ、新潟県岩船郡関川村在住の豪商「渡邊三左衛門家」から飯豊町の「渡辺六郎兵衛家」に嫁いでいます。渡邊三左衛門は岩船と米沢を結ぶ米沢街道を利用し、上杉藩に塩と海産物を販売し、莫大な富を蓄積しました。そして、上杉藩に数千両単位で用立てしていたという記録もあります。

 

故24代恒太郎氏の姉が渡邊三左衛門家のあや子様の母親の弟に嫁いだ縁であや子様は24代恒太郎氏に嫁入りしました。

 

私の実家とあや子様の関係については私の祖父は「渡辺六郎兵衛家」から私の実家に婿入りし、私の母親は「渡辺六郎兵衛」の分家から私の祖父の養女になり、私の実家に入りました。母の婿に入った私の父は戦前、飯豊町の小学校の先生をしていたこともあり、あや子様の弟を教えたことがありました。

 

叔母はあや子様と年が近く、小学から女学校時代まで一緒で現在も親交が続いています。その叔母から子供の代で時国家との関係を絶ってしまうことのないようにまたあや子様は86歳と高齢なので早めに訪問したほうが良いと助言されました。武田先生からも平家と関係ある古文書など是非見せてもらうようにと時国家訪問を勧められました。

 

訪問時期は平家物語カレンダー完成後にしようと作成を続けました。1ヶ月遅れで平清盛が福原の大輪田の泊(現在の神戸港)に立つ姿を描いていた22年8月に「平清盛」が平成24年NHK大河ドラマになると発表されました。

 

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平家物語と関係ある時国家も観光客が増えると思われ、少々焦ってきました。焦る気持ちと裏腹に作成がさらに、遅れ、12枚描き終わったのが平成23年の3月末でカレンダーを完成させたのが5月でした。

 

ようやく準備が整ったので、叔母からあや子様に連絡をとってもらい、訪問が実現しました。平成23年6月16日朝、羽田から飛び立ち能登空港に向かいました。飛行機の窓から、八百年余り前の壇ノ浦の敗戦後、捕えられた平時忠の配流地珠洲市や町野町地域を探しながら心が躍りました。

 

 壇ノ浦の合戦

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11時能登空港着、バスで輪島市を経由して町野町の時国家に14時過ぎに着きました。遠いところから良く訪ねてくれたと大変喜ばれました。マンガ絵の平家物語カレンダーと事前に作成した渡邊三左衛門家・渡辺渡辺六郎兵衛家・時国家そして実家の家系を付け加えた関係図をきっかけにして話が弾み、祖父や母親の世代の話などを懐かしげに話していただきました。

 

ただ、残念だったのは平家に関する古文書がほとんど残っていなかったことです。時忠の配流後も、鎌倉幕府の監視や詮議が厳しく、平家に関する書類などを全て処分し、大谷(現在の珠洲市)の山の中で晩年を過ごしたそうです。

 

その子時国は源氏滅亡後、町野川のほとりに住居を構えたのが時国家の始まりだそうです。従って、平家の名残をとどめる唯一の証は代々引き継いできた部屋の飾りや定紋(平家の定紋揚羽蝶)だけになったそうです。

 

両親が生きている間、親を顧みなかったことを悔やんでいました。しかし、今回の時国家訪問により、子供の代で関係を断絶することなく、維持でき、また、記録を残したことで少しは親孝行した気分になりました。