石油の歴史No34【産油国を覚睡させた一匹狼のポール・ゲッティと日本のアラビア太郎】

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1922年、イギリスはあいまいなサウジアラビアクウェートとの国境を巡る紛争を避けるため、中立地帯をつくりました。そして両国は共同で統治し、石油の利権も半分ずつ分け合っていました。

 

サウジ・クウェート中立地帯  

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第二次大戦後、中東石油の確保を重要視していたアメリカ政府はクウェートが中立地帯の石油資源開発の入札をする可能性をあることを知り、メジャーだけでなく、独立系石油業者の中東進出を歓迎しました。

 

ガルフやイギリスのアングロ・イラニアンは既に、中立地帯に油田を持っており、また、ソーカルカルフォルニア・スタンダード)とテキサコのジョイントベンチャーのアラムコはサウジ側に油田を持っており、エクソンとモービルはアラムコに参加を表明しており、参加を控えました。

 

1947年、元ソーカルのマーケッティング担当重役で戦時中ハラルド・イキスの下で石油管理局次長していたラルフ・デービスは中東進出を狙う独立系石油会社を集め、コンソーシアム(共同体)を組織します。

 

そのコンソーシアムには独立系石油会社「フィリップス」、「アシュランド」、「シンクレア」などが参加し、「AMINOIL」(アミノイル)「アメリカン・インデペンデント・オイル・カンパニー」と名づけました。そして、アミノイルはロイヤリティを1バレル35セントという好条件を提示し、クウェートの中立地帯の石油利権の入札を勝ち取りました。

 

しかし、サウジアラビア側の中立地帯が残っていました。一匹狼の独立系石油業者「ポール・ゲッティ」は「アミノイル」とは別に、単独でこの中立地帯の利権獲得交渉に乗り出しました。

 

彼はサウジアラビアクウェート両国に同時に接触するとメジャーが激怒するような契約条件を示します。

 

アラムコがサウジアラビアにロイヤリティとして1バレル33セント、アングロイラニアンはイランに1バレル16.5セント、クウェート石油はクウェートに15セントを支払っていましたがゲッティはなんと1バレル55セントの利権料を提示します。両国は喜んで承諾し、1948年、ゲッティは中立地帯に油田開発権を手に入れました。

 

中立地帯の石油開発利権を買った「アミノイル」とゲッテイの会社「パシフィック・ウエスタン」は共同で開発作業をしなければなりませんが、最悪の関係でした。

 

アミノイルは構成会社全員の賛成を必要としますが、「パシフィック・ウエスタン」はワンマン会社です。さらに、油田開発は苦闘が続きます。利権獲得後5年たつ1953年の初め、両社の支出は3000万ドル(107億円、1ドル=356円)を越えてました。

 

ゲッテイは20年来争っていた「タイドウオーター石油」の乗っ取りに成功しましたが、石油掘削作業は難攻しており、最後の井戸である6号井から石油がでなければ撤退しようと決心します。
しかし、幸運にも、決心した直後の1953年3月、アミノイルチームがようやく石油を掘り当てました。巨大な油田でした。

 

ゲッテイは膨大な石油を得て、アメリカ、ヨーロッパ、日本を統合する大規模な石油網を作り上げ、一大帝国の皇帝として君臨することになりました。

 

1950年代終わりにはゲッテイはアメリカのガソリン販売では7位に入り、1957年のフォーチュン誌にアメリカで最も富裕で、ただ一人資産1億ドルを越えた人物であると書かれました。

 

1957年、日本も使節団を送り込み、ゲッティ同様、好条件を提示し、12月にサウジアラビア側の中立地帯に利権を獲得しました。

 

戦前より日本の悲願だった自主開発可能な油田を獲得したことで、獲得した油田は「日の丸油田」、利権獲得に奔走し、1958年、アラビア石油を設立し、社長に就任した山下太郎は「アラビア太郎」と呼ばれ当時、大きな話題になりました。

 

ゲッティと日本の例外的な好条件に対し、イブン・サウードに対するアラムコの立場が悪化します。

 

サウジアラビアとアラムコの利益折半】

 

サウジアラビア国王イブン・サウード」はアラムコが支払う1バレル33セントのロイヤリティがゲッティや日本企業が提示している1バレル55セントと比較し低すぎると考えはじめ、自分はひどい横領にあっていると感じてきました。

 

国王は石油パイプライン(タップライン)建設やエクソンモビールのアラムコ参入についても相談を受けなかったことについても不満を抱いていました。

 

1949年アメリカやイギリスが景気後退に入るとアラムコの生産量が減少し、サウジアラビア政府の収入も悪化して、財政難に陥りました。国王はアラムコにゲッティや日本と同等のロイヤリティと資金の借款を要求します。

 

アラムコは国王が要求する金を支払うことは不可能として、代案を考え出したのです。アラムコは税務の専門家を派遣させ、サウジアラビアに利益の半分を利権料に相当するとして、この金額を税金ととして支払うことを承諾させたのです。

 

この策でアラムコはアメリカ政府に対し、利益の半分とする利権料を税金としてサウジアラビアに支払っていると主張でき、海外で支払った税金相当額はアメリカ国内で金額控除することができたのです。

 

1950年12月サウジアラビアと利益折半協定が調印され、アラムコの権利は確保されました。この方法で中東のアメリカ系石油企業はアメリカ国内で払う税金を大幅に減らしていきました。

 

この利益折半協定の影響が隣のイランに飛び火して、事態は大きくなっていきます。

 

【参考】
(1)「石油帝国」、H,オコーナー(著)、佐藤定幸(訳)、岩波書店、1955年
(2)「石油の世紀」、ダニエル・ヤーギン(著)、日高義樹(他訳)、日本放送出版協会、1991年
(3)アラビア石油株式会社ホームページ、2007年
   (その後サービス終了)