喜多川歌麿の判じ絵

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3月4日のNHKスペシャルで「歌麿 紫の謎」という番組を見ました。

85年前の大正時代にアメリカの大富豪スポルデング兄弟が浮世絵に魅了され、収集し、その数は6,500枚にものぼるそうです。

その後、スポルディング兄弟はボストン美術館に寄贈しましたが、寄贈する際、浮世絵は変色・退色しやすいので、展示しないという条件をつけたため、今日までその色彩は保持されていたそうです。

江戸時代当時の色彩を持った浮世絵は非常に貴重なものということで、昨年、研究チームが調査を始め、多くの発見がなされ、今回の放映になったということでした。

特に注目を集めたのが喜多川歌麿の浮世絵版画400枚の女性の着物にあざやかな紫が沢山使われていたことが初めて分かったということでした。

そして、これまで着物の色が退色して謎とされてましたが、今回、最新技術で分析した結果、紫の色は「紅」と「露草」から作った顔料ということが判明しました。

歌麿が活躍した時代は松平定信が「寛政の改革」(1783年~1793年)を行った寛政時代でした。

当時、江戸で評判の町娘を浮世絵版画で売り出したところ、爆発的な人気を呼び、飛ぶように売れたそうです。町娘はたちまち、アイドルになり、難波屋「おきた」と富本「豊ひな」と高島「おひさ」の3人を描いた「当時三美人」という浮世絵版画はベストセラーになったそうです。

身分の低い町人が人気になるのは幕府の権威をおとしめ、武士を軽く見るようになるということで、寛政五年(1793年)「町娘の名前」禁止令を出しました。

そこで、歌麿は当時、江戸で流行していた無関係な絵や文字の組み合わせで解くなぞなぞ遊び「判じ絵」をつかって、浮世絵版画を出版し、これもまた、人気を得て売れ行きをのばしました。寛政8年(1796年)、幕府は「判じ絵」禁止令をだしました。

反骨精神を持つ歌麿はそれにもめげず、浮世絵版画を製作し続けます。

しかし、文化3年(1806年)豊臣秀吉の花見の宴の浮世絵を出したことをとがめられ、歌麿は入牢三日、手鎖50日の刑を宣告され、刑の途中、無念の死をとげてしまいました。

歌麿の浮世絵は江戸幕府の一大政策「寛政の改革」の進める上で障害になるほどのパワーがあったことは驚きでした。