石油の歴史No33【ヨーロッパの戦後復興に貢献した中東石油】

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1945年8月、日本が降伏し、第二次大戦が終了しました。焦土と化した日本と違い、アメリカではガソリンの配給制が解かれ、1945年時点で2600万台走っていた車に一斉にガソリンを満タンにして走りだしました。

 

そして、5年後の1950年には4000万台に増加し、ガソリンの販売量は1945年の1.4倍と急増しました。1948年には石油供給に品不足が起き始め、原油価格が急上昇し、1945年の2倍に跳ね上がりました。

 

石油不足は石油の輸入を急増させ、1947年までは石油の輸出量が輸入量より多かったが1948年から逆転しました。

 

アメリカは第二次大戦の教訓と経済価値を強めていく石油が国家の安全保障、外交政策、国の経済、企業の利益になくてなならない、そして既に起こり始めていたソ連との冷戦という情勢の中で中東石油の確保が重要課題になってきたのでした。

 

1947年11月29日国連総会議でアメリカの多数派工作で領土の3分の2のユダヤ人国家と3分の1のパレスチナ人国家からなる連邦国家を構成するパレスチナ分割が承認されました。翌1948年5月14日イスラエルが建国宣言を行いました。パレスチナ領土分割に憤慨したアラブ諸国軍がパレスチナに侵攻しました。

 

これが2006年現在も続いているパレスチナ紛争の始まりで「第一次中東戦争」です。

 

【参考】ユダの福音書の写本解読と映画「栄光への脱出

yaseta.hateblo.jp

サウジアラビアで石油企業を経営しているアラムコ(アラビアン・アメリカン石油)はソーカルカルフォルニア・スタンダード)とテキサコのジョイントベンチャー合弁会社)でした。

 

イブン・サウドはアラブ諸国の一員としてイスラエルを建国させた西欧のやり方に不満を持っており、それ以上にパレスチナユダヤ人の移住を認めたイギリスの裏切りを許せなく思っていました。

 

アメリカを排除すればサウジの石油利権料収入が途絶えてしまいますし、ソ連の浸透を防ぐためアメリカの安全保障が必要です。イブン・サウドは悩みます。

 

一方、ソーカルとテキサコも中東の政治混乱がアラムコに影響を及ぼすことを恐れていました。政府の後押しを受け、リスク分散し、生産増加を続ける石油の販売市場を拡大するためにも、ニュージャージー・スタンダードとソコニー・バキュームに資本参加を求めます。

 

結局、イブン・サウドはアメリカ企業であれば資本参加を認め、これまでどおり、アラムコの操業を容認し、中東諸国の非難をサウジアラビアを強国にすることは中東諸国への支援強化になると説得しました。

 

アラムコに資本参加を決めたニュージャージーとソコニーに障害がありました。イラク石油(旧トルコ石油)に参加しているカルースト・グルベンキアンとシェルとアングロ・イラニアン(旧アングロ・ペルシャ)とフランス石油とアメリカ企業グループの間で1928年に締結された「レッドライン協定」です。

 

イラク石油に参加した企業は単独で活動できない領域をグルベンキアンが赤線で地図上に描いたものでした。

 

【参考】 レッドライン協定   

yaseta.hateblo.jp

1947年ギリシャやトルコにソ連の脅威が強まる中、アメリカ政府の共産主義に対する支援する特別援助や戦後の疲弊が続いているヨーロッパ復興に欠かせない石油供給のため、地中海のレバノンまでのパイプライン建設が必要になってきていました。また、中東諸国とイスラエルの戦争がおこり、政治不安に曝されている状況でした。

 

そのためにアングロ・イラニアンやフランス石油はアメリカやアメリカ企業アラムコの活動を反対するわけに行かなくなります。

 

1948年11月、イラク石油を再編成し、フランス石油、アングロ・イラニアン、シェルそして最後まで反対したグレベンキアンに有利なる利権や生産枠を決め、合意が成立し、ついに「レッド・ライン協定」が撤廃されました。

 

第二次大戦後もスターリンはイランの石油を狙いアゼルバイジャン地方を占領していましたがアメリカ、イギリスの強い圧力で1946年に撤退しましたが、その後もイラン政府に対し、ソ連・イラン共同石油会社設立を要求してきました。

 

米英両国政府はイランの独立と領土の保全を支援します。イギリスはアングロ・イラ二アンが持つ石油利権を絶対に離すわけには行きません。そこで、アングロ・イラニアン、シェル、アラムコ、ガルフそしてイランは協力関係を完成させました。

 

資金調達から生産・販売システムが整備され、中東石油がヨーロッパに流れる土台ができあがりました。

 

中東の石油はヨーロッパの戦後復興に大きな役割をはたしました。1948年から4年間実施されたアメリカのヨーロッパ復興援助計画「マーシャル・プラン」による援助資金の20%余り、石油と石油関連資材と言われました。

 

1950年、アラムコと加盟4社の投資のパイプラインは完成しました。サウジの石油はパイプラインを1,040マイル(1,670km)を流れ、レバノンのシドン港からタンカーでヨーロッパへの運送が可能になり、これまでのペルシャ湾を経由してスエズ運河を通り地中海にでるまでの7,200マイル(11,600km)を大幅に短縮しました。

 

この石油がヨーロッパを復興させたのでした。

 

【参考】

 

1916年サウジアラビア建国
1923年トルコ共和国成る
1932年イラク王国独立
1935年ペルシャは国号をイランと改名する
1944年シリア共和国、レバノン共和国独立
1945年アラブ連盟結成
1946年ヨルダン王国成立
1947年11月国際連合パレスチナ分割決議
1948年5月イスラエル共和国建国を宣言、第一次中東戦争起る

 

(*1) 「世界史年表」亀井高孝、吉川弘文館、1953年
(*2)「石油帝国」、H,オコーナー(著)、佐藤定幸(訳)、岩波書店、1955年
(*3)「石油の世紀」、ダニエル・ヤーギン(著)、日高義樹(他訳)、日本放送出版協会、1991年
(*4) 「中東&イスラーム世界史」宮崎正勝、日本実業出版社、2006年