石油の歴史No32【中東石油を巡るアメリカ政府と石油業者の攻防】

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1940年、中東の石油生産量は世界の生産量の5%以下、これに対しアメリカは63%の生産量でした。

 

そのため、アメリカはほとんど中東には無関心でした。しかし、イギリス政府は中東の石油だけでなく、国家戦略上、早くから関与していました。

 

イギリスはインドを支配しており、インドは世界でも最大のイスラム教徒を抱えた国であり、イスラムの聖地を守るイブン・サウドは極めて重要な意味を持っていたからです。

 

1942年、アメリカが第二次大戦に参戦した後、石油が戦争遂行上、重要な戦略物資で、国の力と世界を支配する力の基本であることを認識してからは中東の重要性を見直されることになりました。

 

1943年、当時、アラブの石油会社カソック(カルフォルニア・アラビアン・スタンダード石油)を構成するソーカルカルフォルニア・スタンダード)とテキサコはサウジへの政府介入を主張しているハロルド・イキス内務長官の支援を受け、ルーズベルト大統領にサウジへの経済援助の約束を取り付けました。

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イキスはイギリス政府がアングロ・イラニアン石油に持っている所有率51%を真似て、アメリカ政府が51%所有する会社を作ることを提案しました。

 

そして1944年カソックの正式名「カルフォルニア・アラビアン・スタンダード石油」を「アラビアン・アメリカン石油」と名を改め、通称「アラムコ」が誕生することになりました。

 

そして、いよいよ、アメリカ政府が石油ビジネスに参入をはかろうとしますが、石油業者から激しい反対に合い、結局、アメリカ政府は外国石油利権を直接所有することを断念してしまいました。しかし、社名はそのまま残りました。

 

しかし、1944年8月、石油は国家戦略上、重要であると認識したルーズベルト大統領は戦後に備えて検討しているイギリス政府と協力して将来計画すなわち中東の石油を含めた「アクナキャリー協定」の現状維持協定と同じような「米英石油協定」作り、調印までこぎつけたのでした。

 

協定の目的は供給と需要の不一致の是正、過剰生産の調整、供給過剰に悩むマーケットに秩序と安定を図ることでした。

 

8人のメンバーから成る国際石油委員会が、世界の石油需要を推定し、各生産国に生産割り当てを行うというものでした。

 

アメリカの石油業者はまたしても激しく反対しました。アメリカ国内も石油生産が国際協定に規制されることを恐れたからと中東の安い石油が大量にヨーロッパやアメリカに流れ、自分たちの市場が奪われ、価格の下落を招くのではと恐れたからです。

 

そんな中の1945年1月ルーズベルト大統領はこの米英石油協定の上院での批准ための提出寸前で取り下げ、棚上げにしてしまいました。

 

それ以上に重要な課題が発生したからです。1945年2月、戦勝国の代表スターリンチャーチルルーズベルトクリミア半島のヤルタに集まり、戦後の国際秩序の基礎を構築することための会談をすることにしました。彼らは世界を分割し、自分の支配圏を決める取り決めしようとしたのでした。

 

ヤルタ会談が終わった2ヵ月後の1945年4月12日ルーズベルト大統領は急死して、副大統領が第33代大統領になりました。

 

トルーマン大統領の下で再び米英石油協定の見直し作業を始めましたが、1945年ドイツ、日本が無条件降伏し戦争が終わると大量の石油の需要がなくなり、石油協定を作る理由がなくなってきました。

 

それでも、協定を必要とする推進派のハラルド・イキスと中止派のトルーマンが対立し、イキスは1946年辞任してしまいました。後を引き継いだ海軍長官ジェームス・フォレスタルも石油埋蔵量に限度があり、石油の支配権は可能な限り、拡大すべきで中東の石油の確保は重要であると主張し、協定の見直しを始めました。

 

しかし、少数派のフォレスタルの主張は輸入石油はテキサスの経済を破壊するとの抗議に消され、1947年、協定は完全に葬り去られてしまいました。

 

これまで協定推進派が苦心して回避しようとしていた問題のすべてがこれから起こりつつあるということを大部分の石油業者、政府関係者は気付いていませんでした。