1922年ベドウィンの首長イブン・サウドがアラビア全土を掌握した後、イラクのフセインと衝突し、1922~1930年一連の戦争で勝利を収めました。
1932年イブン・サウドはサウジアラビア国王に即位しました。しかし、すぐに大きな問題にぶつかりました。
イスラム教徒のメッカへの巡礼者が落とす金はサウジアラビア王国の主要な収入源でしたが、世界大恐慌の影響で巡礼者が激減し、それに伴い収入も激減し、王国は財政難に陥りました。
国王はアラビアの逼迫した財政難に頭を悩ましていた時、王国の地下に石油資源が眠っており、国王にお金なることを示唆した男がおりました。
その男はジャック・フィルビー(またはハリー・フィルビー)と言われ、1925年イギリスの中東政策に怒りを感じ、インド政庁を止め、アラビアのジッダで貿易商をはじめ、国王と懇意になっていたイギリス人でした。
(ジャック・フィルビーより、イギリスでソ連に加担した二重スパイとして20世紀欧米に最も悪名を高めた息子「キム・フィルビー」のほうが知られているかもしれません。)
1930年ジャック・フィルビーは商売、アラビアの探検、地図製作を行うためアラビアを旅する必要からイスラム教徒に改宗したのでした。
ジャック・フィルビーはイギリス政府にとって厄介者ですが、イブン・サウドからは信頼されていました。
1932年バーレーンで石油が発見されるとイブン・サウドの依頼を受けたジャック・フィルビーは丁度、水脈を調査していたアメリカ人技師カール・トイッチェルを介し、カルフォルニア・スタンダード(ソーカル)に石油利権受け入れ意向を打診しました。
ソーカルはハサーでの石油利権獲得に乗り出していたので飛びつき、サウジアラビアの蔵相スレイマンと交渉に入りました。
フィルビーはアラビアのハサーに石油が埋蔵されていることに懐疑的なイギリスとアングロ・ペルシャにソーカルと交渉していることを秘密にしていました。
1933年5月29日ソーカルとサウジアラビアの最終合意がなされました。
前金3万5000ポンド(17万5000ドル)
内訳は3万ポンドが借款、5000ポンドは年額利権料、石油が発見された場合は10万ポンド(50万ドル)を追加借款することになりました。借款の返済は利権料で支払うことになりました。
石油利権は36万平方マイルの土地におよび60年有効でした。
フィルビーがイギリス公使アンドルー・ライアン卿にソーカルが利権獲得を話すと公使は怒りそして失望で顔を暗くしました。しかし、当時、ルーズベルト大統領とアメリカ政府はサウジアラビアの利権獲得がどれほど重要なのか理解できませんでした。
1934年夏、ソーカルは掘削作業を開始しますが、石油は出てこなく6つの井戸は失敗しました。
それから数年間石油は発見されませんでした。
更に、不安材料が出てきました。もし石油が発見され、生産開始されてもソーカルは中東に近いアジア・アフリカの販売市場が弱いため、この計画遂行が危うくなってきました。
そこで、ソーカルはアジア・アフリカに販売網を持っているがこれら地域をカバーする石油生産地をもっていないテキサコとお互弱いところを補完するため合弁会社「カソック」を作ることになりました。
そして、ついに1938年3月試掘7号井の地下1400mから大量の石油がでました。この発見は新しい時代の幕明けとなりました。
つぎつぎと油田、石油の積み出し港、パイプラインが完成し、さらに拡大しようとした1940年、第二次世界大戦が勃発し、イタリア軍のダーラン爆撃で一部操業停止、そして企業活動は縮小していきました。