石油の歴史No47【イスラエルにパレスチナを奪われた六日戦争】

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1956年10月エジプトのナセル大統領によるスエズ運河国有化をきっかけにスエズ動乱が発生し、結果的に国有化に成功し、イギリスの影響力と威信を低下させ、ナセルの民族主義が勝利したと中東諸国に受け入れられました。

 

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しかし、軍事的にはエジプト軍がイスラエル軍に壊滅的打撃受け降伏寸前まで追い詰められたことに対し、ナセルは報復の機会を狙っていました。

 

1967年5月初め、ナセルはスエズ動乱終了後からエジプトに駐留していた国連監視軍に退去を命じました。

 

5月14日のイスラエル建国記念日からエジプト軍はシナイ半島に機甲部隊を配置し、22日アカバ湾を封鎖し、イスラエルのエイラト港からの石油輸入を阻止しようとしたことからイスラエルは国家存亡の危機にかられ、国内世論は開戦に傾き始めました。

 

6月1日イスラエル挙国一致内閣を成立し、モシュ・ダヤン将軍のもとで奇襲攻撃作戦が練られ、6月5日朝8時、イスラエル空軍機がエジプト・シリア・ヨルダンのアラブ三国の空軍基地を先制攻撃を行い、第三次中東戦争が始まりました。

 

次いで、優勢な空軍力でアラブ地上軍を圧倒し、完全に主導権を握り、7日にエジプトのアカバ湾基地を占領しました。また、シリア、ヨルダンとの戦闘でも圧倒的勝利を収め、シリアのゴラン高原、ヨルダンのヨルダン川西岸全域を占領しました。

 

6月10日ヨルダン、エジプト、シリアの順で国連の停戦決議を受諾し、第三次中東戦争はわずか六日間で終わりました。そのため六日戦争とも呼ばれるようになりました。

 

ナセル大統領はイスラエルに報復しようとしましたが結局返り討ちになり、逆にイスラエルは領土を4倍に拡大し、土地を追われたパレスチナ難民は100万以上がヨルダン川を渡り、ヨルダンに逃げました。この結果、ナセルの権威は地に落ちてしまいました。

 

戦闘開始の翌日の6月6日、アラブ諸国の石油相はイスラエルの友好国に対する石油輸出を禁止しました。6月7日サウジアラビアのヤマニ石油相は国内のイギリス・アメリカ資本の石油会社アラムコに対しても禁輸政策を従うように命じました。

 

先進国で作っているOECD経済協力開発機構)の石油委員会は当初の混乱を乗り越え、各国間の石油需給の調整を始めます。

 

アメリカは石油生産余力を持っており、増産を図り、続いてベネズエラインドネシアが増産しました。また、OPECのメンバーでありアラブ産油国のひとつであるイランだけは別行動をとり増産を図りました。

 

スエズ運河サウジアラビアから地中海へのパイプラインは閉鎖されましたが1956年のスエズ動乱以降に日本で建造されたスーパータンカー6隻によりアフリカを回りペルシャ湾とヨーロッパへ石油をピストン輸送しました。

 

この対応で石油不足の懸念は完全に消えてしまいました。結局、アラブ諸国が行った石油禁輸政策はなんの効果もありませんでした。

 

そして1967年8月29日スーダンハルツームで開催されたアラブ首脳会議で産油国の政府は作戦が失敗だったことを認め、石油輸出禁止を解除することを決定したのでした。
 
【参考】
(1)「石油の世紀」、ダニエル・ヤーギン(著)、日高義樹(他訳)、日本放送出版協会、1991年
(2)「20世紀の全記録(クロニック)」、小松左京堺屋太一立花隆講談社、1987年
(3)「中東&イスラームの世界史」、宮崎正勝、日本実業出版社、2006年