石油の歴史No22【石油発見を否定されたアラビアで石油を発見した男】

イメージ 1

イギリス陸軍少佐で鉱山技師だったフランク・ホームズは第一次大戦中に駐屯したバスラでペルシャ湾岸で見られる地表に石油の兆候を感じ、石油採掘会社を作りました。

1923年クウェートバーレーンの間の海岸地域ハサーとサウジアラビアクウェートが共同管理する中立地帯の石油利権を獲得し、さらにペルシャ湾の小島バーレーンに目を付け、開発に向け乗り出しました。

1925年石油には関心はないが水に関心のあるバーレーンの首長のために水を掘り当てて、多額の金と石油採掘権の利権を手に入れ、採掘調査を開始しました。

しかし、依頼した調査会社から「石油が出る兆候を見せない」という報告書が出て、外部に漏れ、投資者は離れて行きました。

会社は資金調達が困難になり、採掘権をアングロ・ペルシャに売却しようとしましたが、最初からサウジアラビアでは石油は出ないと判断し、フランク・ホームズを利権稼ぎの厄介者と思っているアングロ・ペルシャは購入を拒否しました。

1927年、世界中に油田を持ち生産を分散させたいと思っていたガルフはフランク・ホームズが持っているアラブの石油利権を譲り受け、ホームズとともにさらにクウェートの石油利権獲得に乗り出しました。

1928年ガルフはアングロ・ペルシャからレッドライン協定に違反行為と指摘されます。ガルフはアメリカ側の構成会社の一つとなりトルコ石油に資本参加してレッドライン協定に調印していました。
レッドライン協定ではクウェート以外の地域は単独での石油採掘は禁止されていたからです。
レッドライン協定 

yaseta.hateblo.jp

ガルフはレッドライン協定に調印していないカルフォルニア・スタンダード(以下ソーカルという)にバーレーンでの石油開発の話を持っていきます。

一方、ソーカルクウェートの石油開発でイギリス政府から開発停止を要求されており、その対応措置を考えていたので、直ちに開発に乗り出そうとしました。

しかし、イギリス政府はクウェート、ハサー、バーレーンペルシャ湾岸の首長から対外関係はイギリス政府が担当し、石油開発はイギリスの石油会社が担当するという合意を取り付けており、バーレーンもイギリスの管理下にあると主張してきました。

これに怒ったソーカルとガルフはアメリカ政府の支援を受け、イギリスに協力をさせることに成功しました。

1931年ソーカルバーレーン石油をつくり、試掘を開始、1932年に生産量はわずかでしたが石油がでてきました。

このニュースはアングロ・ペルシャはもちろん他の石油会社をあわてさせたのです。バーレーンでの石油発見はアラブの他の地域でも石油が発見される可能性がでてきたからです。

この時まで、フランク・ホームズはアングロ・ペルシャ、イギリス政府、投資家から石油利権を売り物にした悪者扱いにされ相手にされなくなっていました。

しかし、わずかではあるがこの石油発見で彼らはフランク・ホームズの直感や夢は間違いでなく、悪者でないことを認め、自分たちの判断の甘さを認めざるを得なくなりました。

そして、まもなく決定的な出来事が起こり、悪者どころか彼の見識の高さを証明することになるのです。