19世紀終わり、クウェートはオスマントルコからの独立を確保したがっていましたし、イギリスはドイツのベルリン・バグダット間鉄道建設を阻みたがっていましたので、イギリスはクウェートの外交を肩代わりし、首長国を保護領としました。
クウェートはバスラとメッカの間の交易と巡礼のルートになっており、昔から商業を営んできました。
また、ペルシャ湾岸は天然真珠が採れ、真珠の輸出がクウェート最大の産業でした
しかし、世界大恐慌の影響を受け、サウジアラビア同様、巡礼者が激減し、商業は不振に陥入り、
さらに、日本の御木本幸吉が真珠の人工養殖技術の開発に成功し、1930年までに日本製の養殖真珠が世界の宝石市場からペルシャ湾天然真珠の需要を駆逐してしまいました。
二重の打撃を受けたクウェートは深刻な経済危機に陥いりました。
クウェート政府は新しい収入源として石油に期待し、ガルフ社とフランク・ホームズのイースタン・アンド・ジェネラル社に石油探索開始を促しますが、一向に進みません。アマハド首長はバーレーンの石油発見を聞き、交渉がまとまらないことに苛立ちます。
イギリス政府はレッドライン協定から外れているクウェートに対しても保護領として“イギリス国籍条項”を適用し、ガルフとイースタン・アンド・ゼネラルのクウェート参入を禁止しようとしていたからです。
1931年ガルフはイギリスの排他的政策をアメリカ国務省に訴え、政治的解決を依頼しました。アメリカの強い抗議にイギリスは折れ、1932年4月国籍条項を廃止しました。
イギリスとアングロ・ペルシャのジョン・カドマンはクウェートには石油は出ないと信じていることもあり、寛容になっていたのです。
ところが、1932年5月にソーカルがバーレーンで石油を発見するとアングロ・ペルシャは考えを一変し、関心がないことを否定し、なんとしても石油利権獲得すると言い出したのです。
アマハド首長はカドマンよりいい条件をだせばガルフに石油利権を与えると、既にホームズと約束していました。
それを知ったカドマンは驚き、お互い競り合うと利益にならないとガルフに合弁事業にすることを提案しました。
1933年12月アングロ・ペルシャとガルフは50:50の合弁会社クウェート石油を設立し、サウジアラビアより、1年半遅れて1934年12月23日調印に漕ぎ着けました。
前金3万5700ポンド(17万9000ドル)、
年額利権料7500ポンド(3万6000ドル)、
石油が発見された場合、年額利権料1万8800ポンド(9万4000ドル)
石油利権の有効期間は75年でした。
首長はクウェート石油の代表者をフランク・ホームズに指名し、1947年にホームズが死ぬまでその地位に留まりました。
1935年、石油採掘事業が開始され、1938年2月23日クウェート南東部のブルガンで石油が掘り当てられました。
そして、その産出量が予想以上に大きいことにガルフ、アングロ・ペルシャおよびフランク・ホームズは大喜びしましたが、それ以上にダスマン宮殿のアマハド首長は養殖真珠の輸出不振に代わる収入源として、真珠の収益を勝る石油が確保され、安定収入の道が開けたことに大きな安堵を得たのでした。
1940年第二次世界大戦が勃発し、1942年6月、ドイツに占領された場合を想定し、クウェートの石油井戸はすべてセメントで埋められることになりました。
しかし、クウエート政府には利権料が入り、安定した収入を確保できたのです。