石油の歴史No20【多国籍石油企業による石油価格アズ・イズ(現状維持)協定】

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1928年8月シェルのディターディングはスコットランド屈指の風光明媚の高地にあるアクナキャリー城を1ヶ月間借り切り、旧友ニュージャージー・スタンダード(後のエクソン)のウォルター・ティーグルと狩猟と釣りと静養を兼ね訪れました。

しかし、アングロ・ペルシャ・オイルのジョン・カドマン、ガルフのウイリアム・メロン、インディアナ・スタンダードのロバート・スチュワート大佐、ニュージャージー・スタンダードドイツ支社長ハインリッヒ・リーデマンなど世界の市場を動かしているVIPも加わわっていたのです。

彼らの目的は過剰生産と過剰設備の問題を抱えて不毛な過当競争を休戦に導き、秩序をもたらし、市場を分割し、業界を安定させ、利益を確保するための秘密会合だったのです。

この会合が開かれたのは、1929年の大恐慌の前年、東テキサスでジョイナー親父が油田を発見する二年前でした。

アメリカ、ベネズエラルーマニアソ連産の石油が世界の市場に氾濫し、価格を下落させ、破滅的競争を引き起こす危険があったのです。

このアクナキャリー城での協議は後にアズ・イズ(現状維持)協定と呼ばれ、1928年の市場シェアに基づいて、一定量の市場を各社に割り当てるというもので、需要拡大分の範囲で生産量は増加できるが、市場全体の中でのシェアはいつも一定にするという取り決めでした。

しかし、新協定に大企業は加盟していましたが、アメリカには非加盟の中小企業が多過ぎました。大企業よりほんの少しの低い価格をつけ、大企業の市場シェアを蚕食し始め、国内市場だけでなく、ヨーロッパ市場へも打撃を与え始めたのです。

1930年、東テキサスで油田が発見され、また、ルーマニアなど世界各地の油田から市場に流れ、石油価格はコントロールできなくなり、協定は結局、失敗におわりました。
そして、再び、石油会社はお互いに市場を奪い合う競争を始めることになりました。

その後もシェル、ニュージャージー・スタンダード、アングロ・ペルシャ、ソコニー、ガルフ、テキサコ、アトラティックなど共同で割り当てについての合意事項を決めた“現状維持”協定の新版、“流通協定要項”を作成し、対応しますが、歯止めがかかりません。

1934年さらに、議論を重ね、「諸原則の草案覚書」を作ります。そして、以下の国を挙げての対策などによりようやく、状況が好転し、石油価格が回復してきました。

1. アメリカのニューディール政策推進リーダー「ハラルド・イキス」の指導で州政府が生産抑制に成功したこと。  

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2.ソ連で工業化が急速に進展した結果、国内需要が増え、石油の輸出量が減少したこと。
3.大企業がルーマニアでの石油生産をある程度抑制できるようになったこと。

そして、石油価格は1939年9月第二次大戦が起こるまで現状を維持することができました。