石油の歴史No19【東テキサスのオイルラッシュと世界大恐慌】

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1925年65歳のアラバマ州出身の通称「ジョイナー親父」また「ワイルドキャッターの王」とも呼ばれる一人の男が東テキサスのサビン盆地の土地の借地権を持って、ダラスに現れました。

(ワイルドキャッター:石油の出そうな土地の借地権を手に入れ、他の人々を説得して井戸掘りの資金を出させビジネスをする人)

1927年地主のブラッドフォード夫人の土地の石油採掘を開始します。悪戦苦闘の末、1930年10月3日の夜8時、ジョイナー親父が70歳になった頃、ブラッドフォード三号井から油を含んだ砂が出始め、地面が揺れたかと石油とガスと水が大音響と共に噴出したのです。

1931年の4月終わりまでに多くの一攫千金をねらう人や企業が参入し、次々と石油を掘り当て、サビン盆地には水平線の端から端まで油井やぐらが林立し、50年前のペンシルベニアのように急ごしらえの町があちこちに生まれました。

1931年初め、他の地域では1929年10月起こった世界大恐慌による不景気が続いていますが東テキサスは異常な好景気に沸き立ちました。

1931年6月には1000個もの油井が仕上げられ、大量の石油が無秩序にくみ上げられ、市場に氾濫した結果、石油価格は1バレル13セントまで下落します。

石油に関する一定の権限を持っていたテキサス鉄道委員会が生産抑制を提案しますが、受け入れられません。

東テキサスと石油市場はまったくコントロールの聞かない無政府状態になり、このままでは、アメリカのほとんどの石油会社は倒産に見舞われかねないことになります。

1931年8月テキサス州スターリン州知事は「暴動状態」に陥ったと判断し、州兵を動員し、油田を閉鎖しました。その結果、1932年4月までに石油価格は98セントの1ドルまであと一歩のところまで回復しました。

そして、1932年11月テキサス州は市場割り当て制の法案を制定し、テキサス鉄道委員会にその権限を与え、法的に行使できるようにしましたが、鉄道委員会の割り当てた生産量が不適切であり、さらに深刻な問題「膨大な量のホットオイルと呼ばれる違法に生産されるヤミ石油」が横行しました。

再び、東テキサスの石油生産はコントロールが効かなくなり、石油価格が1バレル10セントまでに下落します。

1933年、ワシントンでは世界恐慌を克服すべく、フランクリン・ルーズベルトニューディール政策として
TVA(テネシー川流域開発公社)などの公共事業を中心に、全国産業復興法や農業調整法の制定などさまざまな景気復興策を打ち出しました。

強いリベラルな信念と情熱を持ち、廉直で道徳感も深く根付いている内務長官のハラルド・イキスは1バレル10セントでは大恐慌を長引かせ、業界全体も石油業界、引いてはアメリカ経済を破滅し兼ねないと、先例のない権限を石油業界や下院議員からの支持を得て、対策にのりだしました。

イキスは石油価格を吊り上げるため、大規模で複雑なヤミパイプライン、ヤミ出荷システムが過剰なヤミ石油を流通させて、市場を破壊しているヤミ石油(ホットオイル)専門業者を含め、数千も横行しているヤミ業者すべてを徹底的に排除しようとしました。

イキスはニューデール政策の一つである自ら警察の役割を担う権限ヤミ石油の取引や阻止する明確な権限が大統領に付与された石油関連条項を含む全国産業復興法を直ちに実行に移します。

連邦調査官を東テキサス油田に派遣し、製油所の記録、計量器、貯蔵タンク、パイプラインのメータなど調べ、さらに、東テキサスから石油を運び出すには連邦政府の「通行許可証明書」を必要とするようにし、連邦保安官FBI)、州警察の協力を得て、ヤミ石油業者の逮捕・起訴を徹底的に行いました。

1934年連邦と州の協力により、ヤミ石油の取り締まりが順調に運び、石油価格回復がみえてきました。
1935年、連邦最高裁は全国産業復興法の石油条項を違憲と宣言し、イキスの各州に対する割り当ての権限も無効になりましたが1934年にコナリー・ヤミ石油法が成立しており、順調に回復していきました。

そして、1934年から1940年までアメリカの石油価格は1バレル1ドルから1ドル18セントの間で変動する夢の1バレル1ドルが実現されました。

制度は機能し、石油の過剰に対する対応策や石油各社と政府との関係はお互い信頼関係が生まれてきました。