【戦車】
1914年9月6日から8日にかけて、タクシー部隊による兵力増強を受けたフランス軍の反抗とそれに続くイギリス軍の反抗で、綿密に計画されたドイツ軍の攻勢は終了し、ドイツ軍が退却した後、西部戦線では両軍が塹壕を掘って対峙しました。
お互い側面攻撃を恐れ、塹壕を掘っているうち、スイスから北海まで600キロメートルにわたって塹壕が掘られることになりました。
そして、機関銃の使用が普及し、防御側を有利にし、こう着状態が2年以上も続きました。
1915年イギリス軍のアーネスト・スウィントン大佐が提案した内燃機関を動力源とし、軌道上を動く装甲を施した自動車を提案しました。
陸軍は取り上げようとはしませんでしたが、チャーチル海相は海軍の予算で研究開発を続けさせました。
海軍がスポンサーとなったことで新兵器はランドクルーザー「陸の巡洋艦」または「ランドシップ」と呼ばれました。チャーチルは「キャタビラー」とよびました。
最終的には、この新兵器は開発中秘密を保つため、暗号名として名づけた「タンク」という名前で知られるようになりました。
タンクは1916年、ソンムの戦いで未熟ながら使用され、1917年11月カンブレで成果を出しました。
タンクが最も決定的な衝撃を与えたのは1918年8月8日のアミアンの戦いでした。
456両のタンクがドイツ軍の戦線を突破し、ドイツ軍に決定的な打撃を与えました。
1918年10月ドイツ軍最高司令部が、勝利はもはや不可能になったと宣言したとき、その第一理由がタンクの出現をあげました。
もうひとつの理由は自動車やトラック(イギリスではローリーと呼ぶ)が輸送の機械化に成功したことでした。
ドイツが鉄道輸送で優越していましたが、連合国側は自動車とトラック輸送で相手を上回りました。
開戦当初、イギリス軍の軍用車は千台満たないわずかなものでしたが、戦争終結前になると自動車23,000台、トラック56,000台、オートバイ34,000台を保有し、それに加え、1917年4月アメリカが参戦し、50、000の自動車をフランスに送り込みました。
【飛行機】
1903年ライト兄弟が飛行機で初めて空を飛んでから、世界中で飛行機が作られ進歩していましたが、スポーツの域をでませんでした。
1911年から1912年にかけてイタリア軍がトリポリのトルコ軍との戦いのとき初めて飛行機投入され、注目を浴びるようになりました。
1914年6月28日戦争が勃発したときから1915年1月までに、イギリスは250機を生産しただけでした。それでも、飛行機はただちに実戦に投入され、飛行機の潜在的な威力はすぐ明らかになりました。
戦争が長引く中で、飛行機は高速点火技術の革新もあって急速な進歩をとげました。戦争勃発時、投入された飛行機は1年とたたない1915年7月には時代遅れになっていました。
戦争初期の飛行機の役割は偵察と観測でした。
最初の空中戦ではパイロットはライフル銃や拳銃で撃ち合いました。
その後、機関銃が据付られ、さらにプロペラの回転に合わせて射撃を同調する技術が開発され、パイロットが誤って自分の機のプロペラを撃つことがなくなりました。こうして戦闘機が生まれました。
1916年までに飛行機は編隊で飛行するようになり、空中戦の技術も進歩しました。そして歩兵戦闘と組み合わせた戦術爆撃も導入されました。
一方、ドイツ軍は戦略爆撃で先んじていました。1918年、爆撃機でイギリス本土を直接しました。第一次バトルオブブリテンでした。これに対し、イギリス軍は戦争末期にドイツ領内の目標を爆撃しました。
戦争は技術革新をもたらし、速度も高度もより早くそしてより高く飛ぶことができるようになりました。
戦争中、生産した飛行機の数はイギリス55,000機、フランス68,000機、イタリア20,000、アメリカは参戦してから1年半で15,000機、そしてドイツは48,000機を生産しました。
戦前、軍部は単なるスポーツと言った飛行機がいかに有用であったかが知らされたのでした。
【艦船】
海軍同士の対抗心が戦争に導く中心的役割をはたしましたが、大英艦隊とドイツ外洋艦隊の本格的海戦は1916年5月31日のユトラント沖海戦一度きりでした。
しかし、大英艦隊はこの海戦以降、北海の制海権を確保し、ドイツ艦隊を本国の母港に閉じ込め、戦略的にイギリスが勝利しました。
チャーチルとフィッシャー提督がイギリス海軍の燃料を石油に転換したことは正しかったのです。石油はイギリス艦隊をより広い行動範囲とより速いスピード、短時間の燃料補給という利点を与えたからです。
それに対し、ドイツ艦隊は石炭を燃料にしており、本国以外、補給基地がなく、行動範囲に制約があり封じ込められ、身動きできず終戦を迎えることになりました。