中国産業視察団を熱烈歓迎したこと

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世界最大のダイアモンド会社「デ・ビアス社」が日本の一般民衆に「結婚指輪は給料の3ヶ月分です」と宣伝していた1966年~1976年(2006.5.13のブログ)、お隣中国では文化大革命という中国国民にとって大変な事態が起こっていました。

yaseta.hateblo.jp

現在も中国は基本的に言論の自由はないですが、共産陣営と資本主義陣営が対立していた当時、共産陣営である中国は言論の自由を厳しく監視しており、中国の一般大衆の意見を述べる手段である壁新聞が共産党を批判すると直ちに警察当局に連行される状況でした。

したがって、日本にも正確な情報が入ってきませんでしたし、1960年~1975年はベトナム戦争が続いており、反戦運動も盛んなり、新聞、テレビはこちらを詳しく報道していました。
私も含め、世の中の一般の人はどちらかというと国内の経済面に目が行っていたように思います。

私が文化大革命の内情を知るようになったのは10年続いた文化大革命が終わり、日中平和友好条約が結ばれた1978年過ぎでした。

社会を知らない中学生、高校生、大学生の集団(紅衛兵)が高校の校長先生や大学の学長、市長、知識階級、共産党幹部までを首に看板をかけ、大衆の前に引きずり出し総括している報道を見て、中国では異常なことが起こったのだと知りました。

毛沢東が推進した大躍進政策が失敗の批判を受け失脚するのを避けるために紅衛兵を利用し、文化大革命と称し競争相手を次々批判させ、投獄、辺境の地に追放したということでした。中にはエスカレートし武力闘争や虐殺も起こりました。
1976年9月毛沢東が死去し、文化大革命を推進した毛沢東の妻ら4人組が逮捕され、文化大革命は終りましたが、その代償は大きく、文化大革命で武力闘争や虐殺事件で死者は1000万人、被害者は1億人ともいわれています。

鄧小平は文化大革命でさんざん批判され、地方に追いやられましたが復活し、1978年8月に北京で日中平和友好条約を結び、中国副首相として批准書の交換のため日本にきました。
(ブログに載せたマンガは1978年10月、鄧小平副首相の来日をI社戯評として描いたものです。)

2006年5月9日の読売新聞の「時代の証言者」という連載記事の最終回に元新日鉄会長の「今井 敬」さんは1978年鄧小平副首相が新日鉄の君津製鉄所を見学にきて、これと同じものを中国に作ってくれといわれ、上海に宝山製鉄所を作ったと載ってました。
これが、NHKドラマで大反響を起こした山崎豊子原作の「大地の子」の中にでてくる日中友好の架け橋として建設された製鉄所です。

1978年以降、中国は日本の工業発展に追いつくため、多くの中国産業関係者が日本を訪れるようになりました。その頃、徳山市(現在、周南市)にある石油製油所や石油化学工場にも視察団がきました。
我々従業員は事務所の熱烈歓迎と描かれた横断幕の下に並ばされ、人民服を着て入って来る視察団に対し拍手をもって迎えました。

マンガにも描いていますが鄧小平副首相も人民服を着て日本に来ました。当時は中国人民は皆、人民服を着ていましたがそれから10年もたたないうちに、すっかり人民服は見なくなりました。