明治の初期、越後街道を歩いたイザベラ・バードについて

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この間、と言っても、2年前、山形県小国町の実家に帰ったとき、いつもお世話になっている親戚のS・Sさんに観光地になっている黒沢峠を案内していただきました。

 

越後(新発田、中条、黒川(現在の胎内市)、関川村)と置賜(小国、手ノ子、小松、米沢)を結ぶ越後米沢街道は内陸の米沢藩の米や酒や木綿・絹などと海側の村上藩の塩や海産物などの交易品の輸送路として利用されていました。

明治17年、小国新道(国道113号の原型)の開通によって、主役は十三峠の越後米沢街道から小国新道に移り、役目を終えることになります。

 

越後米沢街道の関(関川村)の荒川口と小松(川西町)間の飯豊連峰裾野に連なる十三の峠、通称十三峠があり、交通の難所でした。

 

十三峠の3番目の大里峠から12番目の宇津峠までの十個の峠は小国郷にあり、当時、黒沢峠は8番目の標高426mの難所の一つで約3キロの間に石畳が敷かれておりました。

最近、地元保存会が中心になり、補修し、町おこしの一環として力を入れているということでした。

 

47歳のイギリス人女性のイザベラ・バードは、明治維新戊辰戦争からまだ10年しかたっていなく、田舎では藩体制の名残ある明治11年(1878年)5月20日横浜に上陸、横浜・東京を見物、旅の準備をした後、6月10日に東京を出発し、日本奥地旅行を開始しました。

 

粕壁(春日部)、日光、会津、新潟を通り、新発田から始まる越後米沢街道に入り、7月11日に関(現在の関川村)から3日かけ、十三峠を越え7月14日に小松に着きました。

 

越後米沢街道の終点の米沢を通らず、小松から赤湯に向かい、上山、天童、新庄そして秋田、青森、北海道を旅しながら、当時の日本の生活ぶりを記録し、船で横浜にもどりました。

 

そして、帰国後、旅行記「日本奥地紀行」を出版し、当時、世界ではほとんど知られなかった日本について紹介しました。

そして、日本は異国の女性一人旅ができるほど平和であると述べています。当時のヨーロッパでは考えられないと驚異の目で見られました。

そして、初めて触れる異国の日本文化に「日本奥地紀行」はたちまちベストセラーになったそうです。(伊藤という18歳の通訳が同行しますが後半は一人旅をしています。しかし、当時のヨーロッパでは女性の一人旅は危険で不可能でした。)

 

実家にいる妹の話では、「市野々(小国郷)で村人は誰一人、声をかけることなく、ただ好奇の目で通り過ぎるのをみていただけだった」と祖母から聞いた母が話していたそうです。

 

当時の日本の山村・農村はノミ、しらみは普通におり、イザベラ・バードはこれらに非常に悩まされたそうです。

小国郷(現在の小国町)での記録は「子供たちは、しらくも頭に疥癬で、眼は赤く腫れている。どの女も背に赤ん坊を負い、小さな子供も、よろめきながら赤ん坊を背負っていた。女はだれでも木綿のズボンしかはいていなかった。」と記されていました。

十個の峠のある小国郷は山間の村で春~秋は山の恵みは多いが耕地が少なく、冬になると雪も多く、当時は米沢盆地(置賜盆地)の村に比べ、貧しい村でした。

 

イザベラ・バードは沼で借り入れた牛を市野々で交換し、出発しました。最後の難所、宇津峠の頂上に着き、青々した水田が広がる飯豊郷(現在の飯豊町)を見下ろした時の感動を次のように記録しています。

 

眺望の美しい桜峠を越え、白子沢という山あいの村で複数の馬と交換し、さらに複数の峠を越え、午後に手ノ子というに至った。数多くの敷石を上ったり、下りたりしながら、そびえ立つ宇津峠を越えた。これは重畳たる山並みにかかる峠うちの最後ものである。

ありがたい陽の光に包まれたこの頂きから私は、素晴らしい米沢平野(置賜盆地または米沢盆地)を見下ろすことができ、うれしかった。

この平野(盆地)は日本を代表する地味豊かな農耕地帯のひとつである。森が多く、灌漑が行き届き、豊かな町や村が一面点在していた。

またすべてではないが、木々繁る雄大な山々が周りを取り囲みその南側の一番奥の山並みは7月も半ばだというのに雪で真っ白だった。

 

明治11年7月14日、諏訪峠を越え、小松に出た後、米沢に入らず、赤湯に向かいます。そして次のように記録しています。

南に繁栄する米沢の町があり、北には湯治客の多い温泉街の赤湯があり、まったくエデンの園である。「鋤で耕したというより鉛筆で描いたように美しい。米、綿、とうもろこし、煙草、麻、藍、大豆、茄子、くるみ、水瓜、きゅうり、柿、杏、ざくろを豊富に栽培している。実り豊かに微笑する大地であり、アジアのアルカデヤ(桃源郷、理想郷)である。自力で栄えるこの豊沃な大地は、すべてそれを耕作している人々の所有しているところのものである。彼らは、葡萄、いちじく、ざくろの木の下に住み、圧迫のない自由な暮らしをしている。これは、圧政に苦しむアジアでは珍しい現象である。それでもやはり大黒が主神となっており、物質的利益が彼らの唯一の願いの対象となっている。美しさ、勤勉、安楽さに満ちた魅力的な地域である。山に囲まれ、明るく輝く松川に灌漑されている。どこを見わたしても豊かで美しい農村である。

 

江戸時代に上杉鷹山公が藩政改革をした成果が現れていているのだと思いました。

 

平成12年頃、米沢市役所産業部の方から名刺をいただきましたがそこにオフィス・アルカディア推進課と書かれてありました。

バブル崩壊後、技術立国をめざし、日本各地で地域と産学協同でテクポリス構想が持ち上がりましたが、米沢も産業振興のため、郊外に企業や大学の研究所やオフィスを誘致する計画を企画したのでした。このプロジェクト名はイザベラ・バードが言ったアルカディアを採り、さらに産業振興団地の名を米沢オフィス・アルカディアとし、住所を米沢市アルカディア1丁目と名づけたそうです。

 

かつて、外国人にして「桃源郷」と言わしめたこの場所を、この現代に豊かで平和な地域「桃源郷」再現したいという夢を込めて推進したのですが、現在、どれくらい研究所やオフィスが誘致されて成果がでているか、私は把握していません。

(2020.10.5、1部修正・追加)