10月の絵「平家物語 屋島の合戦と那須与一の扇の的」

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 1184年(寿永3年、元歴元年)2月7日の一の谷の合戦で大敗北に帰した平氏は舟で屋島に落ち延びたが水軍を持たない源氏は追撃することができなかった。

 

そこで、頼朝は都周辺、山陽・九州の掃討に努め陸地の勢力確保を図るため、平氏の支配地域である伊賀・播磨・美作・備前・備中・備後そして九州や四国土佐の豪族に下文(くだしぶみ)を送り、平家追討に加わることをすすめた。

 

頼朝ははじめ、義経を総大将とし、攻撃の準備をさせていたが京都にいる義経と鎌倉の頼朝の間に意思疎通がうまくいかず、頼朝は義経を疎むようになる。一方、後白河法皇義経の朝廷を敬う態度を気に入り、義経を信頼するようになり、頼朝は義経の頼朝に対する忠誠心を疑うようになる。

 

1184年8月6日、後白河法皇義経を左衛門少尉検非違使に任命した。頼朝は自分の許可なく任官したことに激怒し、平氏追討軍の総指揮官を解き、義経の兄の範頼に総指揮官を任命した。

 

こうしている間、一の谷の敗北から半年の月日は流れ、平宗盛を総大将とする平氏屋島を根拠地にして、平知盛(とももり)は関門海峡彦島に陣地を築き、中国と九州を遮断して東は淡路・讃岐から西は長門・北九州までの制海権を握り、勢力を盛返し始めた。

 

9月2日、京都を出発した範頼軍は長門の国の平知盛の陣地を落とすため、山陽道を西に進軍したが瀬戸内海の制海権平氏軍に押さえられ、不慣れな西国の国々で兵糧枚の調達も思うに任せぬ状況に陥りながら、1185年(文治元年、元歴2年)正月、ようやく戦果もないまま長門の国に到着した。

 

範頼軍の士気は衰え、不満が続出した。次々に入る範頼の窮状を訴える手紙を受け取った鎌倉の頼朝は、ついに範頼支援部隊として、義経を指揮官に起用し、出撃を命じた。

 

1185年1月10日、義経屋島の陣地を落とすため、京都を出発した。

 

2月17日、摂津の国渡辺まで進軍、舟をそろえ出航しようとしたが北風が吹き、出航延期になる。猪突猛進型の義経と退却も考慮する梶原景時との間に舟に逆櫓(さかろ)を設置するかしないかで口論になり、二人の仲は険悪になった。(巻十一「逆櫓(さかろ)」)

 

義経はその夜、遭難を危惧する船頭たちを脅し、5艙で嵐の中を強引に出航した。

 

2月18日、明け方阿波の国勝浦に到着、讃岐の国屋島の軍は手薄という情報をつかみ、そのまま強行軍、屋島に到着するやいなや平氏の陣に火をかけ、攻撃した。突然の急襲に源氏の大軍が押し寄せたと勘違いした平氏軍は大混乱に陥り、急いで舟に乗り、沖合に脱出した。

 

2月19日、平氏義経軍がわずかな兵力であることを知り、平氏軍は平教経(のりつね)を中心に巻き返しにでる。

 

奥州平泉にいた義経が挙兵したとき藤原秀衡(ひでひら)に命により義経に仕えてきた佐藤三郎兵衛(びょうえ)嗣信(つぎのぶ)、四郎兵衛(びょうえ)忠信兄弟の兄の佐藤嗣信は義経を射落とそうと平教経の矢を防ごうと身代わりになり射ぬかれ戦死した。(巻十一「嗣信の最期」)

 

(佐藤嗣信、忠信兄弟は現在の福島市飯坂町出身である。平氏は出身の伊勢(三重)を中心に西国の武士からなっているのに対し、源氏は武蔵七党といわれる八王子の横山党、日野の西党など武蔵七党や相模を中心とした関東・東北の武士からなっている。)

 

夕暮れになり、戦(いくさ)が中断したところで平氏は一艘の舟に美女を乗せ、扇の的を立て射落としてみよと挑発した。義経に命じられた下野の国(栃木県)の那須与一宗高は「南無八幡大菩薩日光権現、宇都宮大明神、那須の湯泉大明神、願わくばあの的の真ん中を射させ給え、射損なったら自害覚悟である、この矢外させ給うな」と念じると、風が弱まり、その瞬間、矢を放つと見事に扇の要の一寸上に命中、扇は空に舞い上がり、大空にひらひらひらめき、春風にもまれて海に散った。(巻十一「那須与一」)

 

与一の妙技に感激した平家の侍が踊りだしたが再び与一がでて射殺したため、戦(いくさ)が再開され、源平双方から武者がでて力比べとなった。敵の錣(しころ)を引きちぎって力比べに勝利したのは平氏の上総悪七兵衛景清だった。(錣(しころ):兜(かぶと)の左右から後方に垂れて首を保護するもの)

 

ふたたび、戦になり、源氏は馬で海に入り攻撃した。義経は自分の弓が流され、危険を冒して取り戻した。重臣たちは大金をはたくような高価な弓とはいえ、命を張るほどのものでないのにと申したところ、義経は源氏の大将とあるものがこのような弱い弓を持っているのかと敵に馬鹿にされるのが耐え難いので命がけで取り戻したのだ」と話した。この話は部下たちは大いに感心した。(巻十一「弓流し」)

 

2月21日、義経軍は志度の浦に逃れた平氏軍をさらに攻撃し、ついに平氏軍は四国から撤退を余儀なくされた。

 

1185年2月22日、梶原景時が大軍を率いて四国に渡ってきたときには、平氏はもぬけのからで既に、義経が四国を制圧していた。

 

(注)年代や内容は参考資料、歴史書と文学「平家物語」によって若干異なる。年代や内容は主に歴史書を土台にして文学「日本古典文学全集「平家物語」の内容の一部を追加して作成した。

 

【参考】
1.「日本古典文学全集46 平家物語2」、市古 貞次、(株)小学館、1994年8月20日
2.「平家物語図典」、五味 文彦、(株)小学館、2005年4月1日
3.「日本の歴史6 武士の登場」、竹内理三、中央公論社、1965年7月15日
4.「日本の歴史大系3 貴族政治と武士」、井上光貞他、山川出版社、1995年11月5日
5.「平家物語」、石母田正岩波新書、1966年12月10日