山本鉱太郎氏講演会「超人伊能忠敬の熱い生涯」を聴講して

イメージ 1

2月3日財団法人興風会主催の野田文化講演会で旅行作家の山本鉱太郎氏による「超人伊能忠敬の熱い生涯」の講演を聴講しました。

 

講師の山本鉱太郎氏は78歳と高齢にもかかわらず矍鑠(かくしゃく)として、第二の人生に入ってから北海道から九州まで歩きながら沿岸を測量し、最初の実測日本地図「大日本沿海與地(よち)全図」を製作した偉業を成し遂げた「伊能忠敬の生涯」を熱い思いで語っていただきました。

 

伊能忠敬は江戸時代中期の1745年、上総国山辺郡子関(こぜき)村(現在の千葉県山武郡九十九里町小関)のイワシ博物館近くの名主小関家の三男として生まれ、1762年の17歳のとき、佐原村(現在の千葉県佐原市)の造り酒屋伊能家に娘婿として入りました。

 

当時、伊能家は家運が傾きかけていましたが忠敬の手腕で業績は黒字転換し、1781年(36歳)には佐原村の名主になり、苗字帯刀を許されました。

 

1782年の天明の飢饉のとき忠敬は施米して多くの人々を救い尊敬を集めました。忠敬は若い頃から読書、勉学が好きで暦学、和算天文学に親しみ、測量や絵図面を描いていました。しばしば洪水が起こり、名主としては堤防造りを指揮するため測量の知識が必要でした。

 

1794年(49歳)のとき、息子の景敬(かげたか)に家督をゆずりました。そして、平均寿命が50歳と言われた当時、隠居して悠々自適の生活をして余生を送るのが当たり前のときに天文学と測量学を学ぶため江戸に出ました。

 

現在の江東区深川門前仲町に住み、当時天文学者として名高い十九歳年下の高橋至時(よしとき)について学びました。

 

そして、1800年(55歳)から幕府の天文方高橋至時(よしとき)の推薦でエゾ(北海道)の測量に出立しました。このときから、17年間にわたる、日本地図作成のため日本全土測量行脚が始まりました。

 

伊能忠敬が使った測量器械は北極星(ほっきょくせい)など星を図って緯度を計算する「象限儀(しょうげんぎ)」や山や海岸線などの方向をはかる半円方位盤や高橋至時(よしとき)考案の距離計「量程車(りょうていしゃ)」がありました。

 

距離計「量程車」は道がでこぼこであったため正確さが欠けるため、使用せず、藤(ふじ)つるや竹の「ものさし」や、「歩測(ほそく)」で測定しました。歩測は一定の歩幅で歩き距離を求め、時には測量機械で星や方学を測定し計算し、距離を修正したそうです。

 

1816年71歳までの16年間9回の測量行脚で歩いた距離は9378kmに及び歩幅にすると4000万歩に及んだということでした。

 

伊能忠敬は1818年73歳で死去しましたが門弟たちは測量を続け、3年後の1821年ついに日本地図「大日本沿海與地(よち)全図」を完成させました。

 

幕府は伊能忠敬の功績を讃え、孫に五人扶持と江戸に屋敷と永代帯刀を与えたといいます。

 

1826年、高橋至時(よしとき)の後を継いだ息子の幕府天文方「高橋景保」がシーボルトに渡した日本地図は伊能図をもとに編集した地図といわれ、このシーボルト事件で「高橋景保」は国外持ち出しの禁を破った責任を問われ、牢に入り獄死しました。

 

後に日本に来たヨーロッパの測量技師が日本地図の正確さを確認し、江戸時代の測量技術の水準が当時のヨーロッパと比べても引けをとらないと驚いたということでした。

 

山本氏は伊能忠敬にのめり込む前、人生50年と言われた時代に50歳になってから測量の勉強しなおし、55歳から日本全国を歩き、測量したということを信じられず、調べ始め、佐原市伊能忠敬記念館や伊能家の子孫の資料や話を調べていくうちに嘘偽りがないことを確信し、その偉大さに尊敬の念を抱かざるをえなくなったと話されました。

 

山本氏の熱い語りに聞き惚れ、私もすっかり伊能忠敬の生き方に魅了されてしまいました。定年退職後の第二の人生に後世に語り継がれる最高の仕事を成し遂げた伊能忠敬の業績はあまりにも偉大過ぎて足元にもおよびませんが私もその生き方や心の持ち方の数分の一を試みようと思いました。

 

そして、講演で紹介された井上ひさし伊能忠敬について書いた小説「四千万歩の男」(日本歴史文学館22、23、講談社)を興風図書館から借りてきたので読み始めました。
 
【参考】
(1)「超人伊能忠敬の熱い生涯」、野田文化講演会資料、山本鉱太郎、2008.2.3
(2)佐原市伊能忠敬記念館ホームページ