石油の歴史No4「ロイヤル・ダッチ・シェルの誕生」

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イギリスのロンドンのマーカスとサムエルのサムエル兄弟は父親から引継ぎ貝の輸入業を営んでいました。
1885年マーカスはロスチャイルドと組んで自分が開拓したアジアの市場に石油を販売するために乗り出します。そして、石油専用タンカーを9隻建造します。

1892年、タンカー「ミュレックス号」がスエズ運河をとおり、アジアに進出し、スタンダード石油が独占していたアジア市場に乗り込んでいったのでした。

マーカス・サムエルの父はビクトリア時代、海辺のリゾートで貝殻細工の箱を売っていました。マーカスは父親を偲んであたらしい事業を「シェル」と名付けたのでした。

オランダの統治下の東インド諸島では数百年前から石油が滲みでて、“土の油(アースオイル)”と呼ばれ、手足の筋肉のしこりの治療などに使われていました。

1865年スマトラ島一帯で52箇所もの石油の露出が見られたが、まだ、誰の関心をひきませんでした。

1880年東スマトラ・タバコ会社のマネージャー、ジフケルが現地人が使っている石油に目をつけ、1885年試掘に成功しました。
ジフケルはオランダ中央銀行の前総裁で東インドの元総裁の援助を受け、この強力なスポンサーのおかげで国王ウイリアム三世がロイヤルの名称の使用を許しました。こうして、ロイヤル・ダッチ社が設立されました。

ところが、その数ヶ月後、ジフケルは急死してしまいました。引き継いだのが生まれながらのリーダーオーギュスト・ケスラーでした。
1892年ケスラーは苦労しながらも石油を掘り当て、パイプラインと製油所を作り、石油の生産をはじめ、1895年から1897年で生産は5倍に拡大しました。

一方、1897年、マーカス・サムエルのシェルはボルネオでようやく石油を掘り当てるが原油には灯油成分がほとんどありません。しかし、重油として船の燃料として使えるとマーカスはイギリス海軍に石炭の代替として提案するも受け容れてもらえませんでした。

19世紀末は石油の世界的ブームで、需要は急速に伸びて供給不足になり、価格は上昇しますが、1900年、ロシアの穀物生産の不振で経済不況が起き、石油の需要が急激に落ち、価格は崩壊してしまいました。

さらにシェルにとって有望だった中国も外国人排斥を叫ぶ義和団の乱で国土と経済は打撃を受け、市場が止まりその上シェルの施設も略奪に合い、苦境に立たされます。

ロイヤル・ダッチはスマトラでは井戸が枯渇し、存続の危機に立たされる寸前の1899年12月に石油を掘り当て蘇りました。
同じ12月オーギュスト・ケスラーは心臓発作で死亡しました。34歳のヘンリー・デターディングがマネージャーに任命されました。この男がそれから35年間石油業界の一大権力者として君臨することになります。

当時、シェルとロイヤル・ダッチの両者は合わせてロシアと極東の石油輸出の半分以上を支配していました。苦境のシェルは対等合併を申し入れますが条件が合わず、折り合いがつきません。
シェルはスタンダード・オイルにも打診しますが、シェルの実情の悪さを知ったスタンダード・オイルからも色よい返事をもらえませんでした。
結局、1907年、シェルはロイヤル・ダッチと条件の悪い完全合併に同意します。

こうして、資本比率シェル40%、ロイヤル・ダッチ60%の会社、ロイヤル・ダッチ・シェルが誕生したのです。

【参考資料】
1.「石油の世紀」上、ダニエル・ヤーギン著、日高義樹、持田直武訳、日本放送出版協会、1991年発行
2.「石油の開拓者たち」村上勝利著、論創社、1996年発行
3.「オイル・ビジネス」リチャード・オコーナー著、富岡隆夫、三露久男訳、(株)サイマル出版会、1972年発行