元日本陸軍戦闘機操縦士の奇跡的生還

 

4式戦闘機疾風とグラマンヘルキャット東京湾空中戦

 

日本陸軍戦闘機操縦士の自伝の表紙

 

日本陸軍戦闘機操縦士の自伝

家内の姉の主人T.Mさんは父親のI.Mさんと山口県周南市に住んでおります。
I.Mさんは1917年(大正6)年1月生まれで、2006年で89歳になりました。
私は2月15日の夜、ブログの更新のため、パソコンを借りにT.Mさんのお宅にお邪魔しました。

そのとき、本棚に整然と並んでいたI.Mさんの70年間の人生を写真と書簡と文でつづられた24巻の自作の自叙伝に感心させられました。
また、太平洋戦争の生き残り「航空戦士の奇跡とロマン」(元陸軍飛行隊操縦士 I.M)という自叙伝を1989年(平成元年)に自費出版しています。
I・Mさんの戦争に関する貴重な体験の概要を記述してみることにしました。

I.Mさんは1937年(昭和12年)20歳で陸軍航空二等兵に志願しました。
1939年(昭和14年)20倍以上もある飛行操縦士採用試験に合格し、朝鮮群山飛行学校では厳しい訓練を終了後、輸送部隊に配属されました。航空戦闘機要員の8割は輸送部隊に配属されたそうです。

この後、陸軍航空兵軍曹に昇進し、97式戦闘機の操縦士技術を習得しますが、戦闘機の空輸を命ぜられ、97式戦闘機の空輸を皮切りに、98式軽爆撃機、99式双発爆撃機、97式重爆撃機の空輸を行っていました。

1943年(昭和18年)8月に戦闘機操縦士として一式戦二型(隼)13機とともに在ニューギニア「飛行第24戦隊」に補充されました。1943年12月までに8名は戦死し、内地、立川飛行場に帰還したのはわずか5機だったそうです。

1944年(昭和19年)4月相模原の第一練成隊で4式戦闘機「疾風(はやて)」の操縦教官になりました。

1945年(昭和20年)1月より米軍による日本本土の空襲がはじまり、わずか数機で東京湾で敵機B29の迎撃を行った。愛機「疾風」と3式戦闘機の共同攻撃でB29を1機撃墜しました。

その2月、東京湾上空で、グラマンを迎撃し、1機撃墜するも、別のグラマンに急降下攻撃され、急反転降下したが時遅く、敵弾が命中、疾風は炎に包まれた。脱出し、落下傘降下に成功したが顔面を火傷を負ってしまいましたが、幸い、救助船に助けられ一命を取り留めました。
1ヶ月の治療後は特攻隊員の操縦教官に復帰し、幹部候補試験に合格し、通知とともに准尉になりなりましたが、6ヶ月後の少尉になる前に、8月の終戦を迎えることになりました。

当時、戦闘機操縦士は生き残る確率が非常に低いものでありましたが、I・Mさんは幸運にも奇跡的に生き残ることになったわけです。このとき27歳でした。

I・Mさんの兄さんは満州ソ連軍の捕虜になり、シベリアに抑留され、過酷な労働の末に1946年(昭和21年)1月、36歳の若さで病死しています。