レッドクリフpart2試写会を見ての疑問を調査「赤壁の戦いにおける曹操大敗の原因」

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先日、「レッドクリフpart2」試写会に当選したので映画をより面白く見るため、少し下調べしていきました。

 

三国志は正史の「三国志」と史実を基に物語を面白くするため若干誇張気味に書いた著者「羅貫中」の「三国志演義」がありますが三国志の「正史」も「演義」も主な登場人物や出来事はほぼ同じようでした。大きな違いの一つは正史では曹操劉備孫権と比較しても勝るとも劣らない人物であるが演義では悪役として描かれている点でした。

 

昨年「レッドクリフpart1」、今回「レッドクリフpart2」を見ましたが「三国志演義」を基にしてつくられており、「演義」では脇役となっている周諭の妻で絶世美女と言われた「小喬」と孫権の妹「尚香」の活躍がクローズアップされ過ぎて私には曹操が易々と策略に乗ってしまう無能な将軍として写ってしまい残念に思いました。

 

映画を見た後、官渡の戦いで逆転勝利をおさめた名将「曹操」はなぜ「赤壁の戦い」で大敗を喫してしまったのかあらためて三国志の資料を見て探りました。

 

この記事はあくまで下記参考資料からまとめた概要です。
三国志は日本人にとって人気があり、参考資料、小説、映画、ゲーム、マンガなども沢山出版され多くの人々に見られており、内容の主要な項目ついても多くの人に知られております。

 

映画「レッドクリフpart2」は種々の工夫がなされ、これまでの出版物と大きく異なる点や戦闘場面などスケールが大きく迫力があります。
この概要記事を読まれたとしても、これから映画「レッドクリフpart2」を見ようとされる方々の楽しみを損なうことはまったくないと思います。

 

赤壁の戦いの概要】
西暦200年、日本の弥生時代後期(邪馬台国成立の10年~30年前)、曹操は「官渡の戦い」(官渡:現在、黄河中流河南省洛陽市の東にある鄭州市と開封市の中間)で袁紹を破り、中原を支配下に治め、群雄割拠する勢力を制圧し、天下統一を目指していました。

 

201年、劉備曹操に破れ、荊州劉表のもとへ逃れ、志を実現するため才能ある人材を求め、立て直しを図ります。

 

208年7月曹操は80万の大軍を率いて天下統一の大遠征に乗り出しました。最初の目標は荊州でした。荊州は長江の中流に位置する軍事的な要で現在の湖北省湖南省一帯に当たる地域で、荊州を手に入れれば、湖東の孫権を制圧するのに有利なり、西の豊かな土地益州を手に入れやすくなります。

 

荊州の支配者、劉表の死後、息子の劉琮(りゅうそう)が後を継ぎますが、圧倒的な曹操の軍勢の前に劉琮は戦わずして降伏しましました。しかし、劉備は戦いますが敗れ、退却します。

 

さらに曹操は80万の水軍とともに長江を下り、孫権討伐を目指します。

 

yaseta.hateblo.jp

映画「レッド・クリフ」part2は2000隻の大船団からなる曹操軍に対しわずか200隻からなる5万の孫権劉備連合軍が長江を挟んで激突した「赤壁の戦い」を描いたものです。

 

【80万の曹操軍が5万の劉備孫権連合軍に敗北した理由】

 

孔明の戦略
劉備荊州の戦いで敗れたもののまだ2万の軍勢を温存していている。曹操軍は80万の大軍ではあるが3つの弱点を持っている。
1.長距離の移動と戦いの続行で兵士は疲弊している。
2.曹操軍は陸上戦に得意だが水上戦には慣れていない。
3.曹操荊州を占領したばかりで地域情勢は安定していない。

 

曹操孫権に脅迫ともとれる手紙を送ります。皇帝の命にて逆族を制圧すべく大軍を率いて南下した。劉表は無抵抗で降伏した。次は80万の水軍を連れ、江東の地で将軍と狩りを楽しみたい。

 

参謀の魯粛以外のとりまきは脅え、孫権に投降を進言しますが魯粛孫権の前で周諭に意見を求めます。

 

周瑜の戦略
1.周辺地域は情勢が不安定である。
2.曹操軍は水上戦に不慣れである。
3.長距離の遠征で食糧の補給が困難である。
4.北の兵士は水や土地になじめない。
3万の兵を預けてくれれば曹操を打ち破ってみせると断言しました。そして、孫権曹操と徹底抗戦を決意します。

 

一方、曹操は軍船を鉄の鎖で結ぶという致命的な誤りを犯してしまいます。現在の常識で考えると曹操のとった行動は大きな誤りだったと思いますが、当時、曹操が置かれていた立場を考えてみるとそうせざるを得なかったと思われます。

 

曹操軍の状況と曹操の戦略
兵士たちは水や土地になじめず水上戦に不慣れだした。そして、なによりも疫病が蔓延しており、次々と疫病にかかる兵士が増えていました。そして、「陸上戦での強みを発揮できる。」と考え、また、孫権劉備の力を侮り、大軍で一挙にせん滅しようと攻撃を急ぎ、「鉄の鎖で船を繋ぐ」という作戦を実施したのです。

 

黄蓋孫権に火攻めを提案したのです。時は11月末で北西の風が吹いており、曹操軍は風上に孫劉・連合軍は風下にいました。こんな時火攻めをすれば味方の船に火がつき燃えてしまいます。しかし、孔明周瑜はこの時期にまれに東南の風が吹くことを知っていました。

 

黄蓋曹操に手紙を送り降伏をすることを伝えました。孫権劉備連合軍5万で曹操軍の80万に立ち向かっても到底勝ち目はないが周諭や魯粛は戦おうとしている。しかし、黄蓋は勝ち目のない戰さなどはしたくないと訴えたのです。

 

曹操は裏切ることはあっても裏切られることはないという慎重で用心深い人物であったと言われています。その曹操がなぜ黄蓋の言葉を信じたのか。曹操の過去の経験が誤った判断を招いたと言われています。

 

官渡の戦いで苦戦していた時、許攸(きょゆう)が寝返りを打ち曹操に味方したため袁紹の大軍を打ち破ることができました。現在は80万の大軍を率いる圧倒的な軍事力を持っているため、許攸とおなじように寝返ってもおかしくないと曹操は考えたのです。そのため、曹操は始め疑いを抱いたものの結局、黄蓋の投降の手紙を信じてしまいました。

 

西暦208年11月20日の甲子の吉日に孔明は身を清め、風を呼び、雨を呼ぶ秘法「奇門遁甲(きもんとんこう)の術」を使い、祈祷を始めました。孔明周瑜に「我が祈りにより、20日~22日までの三日三晩東南の風を呼びます。風は一度だけ吹いただけでも計略は成就します。風が吹いたらただちに攻撃を開始して下さい。」といいます。

 

20日の夜までは風の兆しまったくありませんでしたが夜更けになると次第に東南の風が吹いてきました。黄蓋は枯れた葦や木の皮を積み、油を注ぎそれらを幕で覆った火攻め船数10隻と軍船で曹操軍に近づきました。

 

曹操軍は近づいてくる黄蓋の船団を降伏してきたと思い込み、歓迎しました。その時、一斉に火攻め船の枯れ葦に火が放たれ、帆に東南の風を受けた火攻め船が曹操軍の船に激突し燃え上がりました。東南の風にあおられ、鎖で繋がれた軍船は身動きがとれず次々と燃え、焼き尽くして行き、曹操軍は大混乱に陥ったのでした。

 

そこへ、太鼓を鳴らし、周瑜の突撃隊が襲いかかりました。こうして曹操軍は大敗を喫してしまったのです。この結果、曹操の天下統一は破れ、天下の形勢は大きく変わり、ほぼ互角の三つの国が成立するきっかけとなったのです。

 

なお、映画の中の連環の計、疫病発生、火攻めなどは正史や演義にありました。3日で10万本の矢の取得、曹操水軍の指揮官の排除については演義にありますが正史あるか把握できませんでした。また、映画の中で小喬と尚香が実行した作戦は映画のために作られたもののようです。

 

【参考】
1.「レッドクリフ・ウォー 三国志赤壁の戦いの真実」、中国国際電視公司
2.「人物 中国の歴史5 三国志の世界」、駒田信二、(株)集英社、1981年7月
3.「三国志の英傑」、竹田晃、講談社現代新書、1990年12月
4.「横山光輝三国志事典」、(株)論風社、(株)潮出出版社、1983年4月