1960年代のIBM対国産コンピュータメーカの攻防

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週刊ダイアモンド8月2日号に日本IBM最高顧問「椎名武雄」氏の体験話が載っており、最も印象に残る仕事として二つあげておりました。

1967年営業担当常務として八幡製鉄(現新日本製鉄)の君津製鉄所で世界で初めての鉄鋼製品の受注・生産・出荷までの一貫オンラインシステムを開発し、稼動させたこと。

平行して、朝日新聞社日経新聞社に日本語の自動編集製作システムを開発・稼動させたこと。

これまでの鉛の活字印刷から電子化へのアプローチで日本語処理の複雑さに開発が難航して、開発が遅れ、1971年に稼動させたということです。

私は1969年(昭和44年)石油会社に入り、1971年にコンピュータをやることになりましたが、当時、IBMは巨大企業でヨーロッパでは次々とIBMに侵攻され、シェアは90%になっていました。

日本では日本語の処理がIBMの侵攻を足踏みさせていましたが、アポロ計画を担当した技術者の支援を受け、新聞自動編集システムを完成させたということで大きな話題になりました。
また、国産コンピュータのOS(コンピュータを動かす基本ソフト:オペレーティングシステム)はIBMの基本特許が必要でした。

国産コンピュータメーカがIBMに対抗できるように当時の通産省はいろいろな施策を講じ、日本の産業界も協力しました。私たちは石油化学技術計算をやっていましたが国産メーカのソフトよりIBMのソフトは優れており、コンピュータリプレース時にIBMを希望しましたが、私の勤めていた会社の方針で、国産優先のため常に却下されました。

当時、IBMがエレファント(象)で国産コンピュータメーカはモスキート(蚊)くらい企業格差があると報じられていました。