モンゴル建国800周年と蒼き狼“チンギスカン”

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2006年はモンゴル建国800周年にあたり、モンゴルでは国をあげて祝典やイベントが行われており、日本の旅行会社はモンゴル建国800周年に因んだイベントなど夏休み観光ツアーを企画し、観光客を募集する広告を目にします。

モンゴル建国の立役者「成吉思汗」(チンギスカン)は1206年、中国、アラビアなどユーラシア大陸を征服し、モンゴル帝国を築いたアジアの英雄であり、孫のフビライはその後、さらに領土を拡大し、「元」を興して、東は日本まで征服を図ろうと襲来(元寇)しました。

成吉思汗はアジアの英雄として、日本人には昔から人気があり、活躍した時代が鎌倉時代初期だったことから義経は平泉から北海道、シベリアをへてモンゴルに渡り、成吉思汗になったという伝説さえがあります。

学生時代読んだ、井上靖の小説「蒼き狼」を思い出し、再び、図書館から借りて来て読みました。

成吉思汗は通常、最も多く呼ばれているのがジンギスカン、小説「蒼き狼」ではチンギスカン、その他ではチンギス・ハーン、現在、日本経済新聞に連載されている堺屋太一の小説では「チンギス・ハン」と呼ばれていますがここでは、小説「蒼き狼」の呼び方でチンギスカンと呼ぶことにします。

この小説の巻末の著者井上靖自身が昭和35年に書いた解説が載っています。
それによると、この小説の題名“蒼き狼”は土台となった「元朝秘史」の冒頭に「蒙古民族の祖が上天の命によって、西方の大きく美しい湖を渡ってきた“蒼き狼”と“なま白い牝鹿”の交配によって生まれた」と記されていることから付けられたそうです。

小説【蒼き狼】について
蒙古は中国万里の長城の以北にあり、東は興安嶺、西はアルタイ山脈天山山脈、南は万里の長城に依って中国、ゴビ砂漠に依って西域に隣接しているまた北方はバイカル湖付近を境にシベリアの無人地帯が広がっています。

モンゴルの広大な高原はオノン、インゴタ、ケレルン河は黒竜江となってオホーツク海に、トウラ、オルコン、セレンガ河はバイカル湖に流れており、これら2つの水脈は中部の高原地帯から発し、その流域は草原地帯や高原地帯を形成し、各種民族が興り亡んでいったところでした。

テムジン(鉄木真)が生まれた頃、高原にはモンゴル部族、メルキト部族、タタル部族など8つの部族が主導権を握ろうと絶えず闘争を繰り返していました。

敗者の男のうち、反抗するものは虐殺され、それ以外は組み込まれ、女は征服者の所有物になり、戦闘員を産む役目を担わされ、または労働力にされ、羊や馬や家財道具など財産すべて没収されるという過酷な運命が待っていました。

蒙古の男も女も部族を守り、豊かな生活を切り開いていくためには、他部族より強い、男すなわち狼を育成することが最も重要なことだった。

1162年テムジンは遊牧民モンゴル部族の頭領エスガイと母ホエルンの間に生まれました。テムジンの母「ホエルン(オルクヌウト族)」はメルキト部族に略奪され、エスガイに二重略奪された人で、テムジンは自分はエスガイの子ではないと疑い持つが確かめる術もなく生涯、悩むことになります。

モンゴル部族の頭領「エスガイ」はテムジンがまだ幼い頃に急死し、その勢力は一挙に衰え、テムジン一家だけ孤立しますが、一家の頭領となったテムジンは13歳になったときは傑出した才能を持つ狼となり、次第に勢力をつけていきます。

そして、テムジンは蒙古の部族を次々と打ち破り、遂に、1206年、全蒙古を統一し、式典の会場で長老たちより、モンゴルの王として“盛大なる大君”という意味を持つ“成吉思汗(チンギスカン)を授けられました。

このとき、チンギスカンは44歳でした。

この後、周辺の異民族を掃討しながら新しい知識、武器そして戦闘形式を改良していき、最強の騎馬軍団を形成していきます。

1207年、モンゴル帝国は21部族200万人の人口をになりました。

1210年、父親、祖先の代から打ち負かされていた隣国、西夏を攻略し、1212年、チンギスハン55歳のとき、20万の軍とともに、文化水準も高く、優れた武器、知識を持つ宿敵の大国「金」に進攻し、激しい戦闘の末、勝利を収め、モンゴル帝国に組み入れていきます。

1218年、チンギスカンはホラズム(現在のアラル海カスピ海周辺からイラク、イラン・アフガニスタン地域)、を攻略し、カザフスタンウクライナグルジアまで遠征し、一代で史上空前の大帝国を築きあげました。

1225年、チンギスカンは再び西夏進攻を開始します。1225年年末ゴビ砂漠を越え、1226年2月首都に入り、各地で戦闘を制し1227年5月に西夏全土を制圧しました。

そして、1227年7月疲れを感じ、病気になり息子を病床に呼び、自分が他界したら、全軍が故国に帰還するまで隠すよう伝え息をひきとりました。享年65歳でした。

チンギスカンは13歳から65歳までまでの52年年間、ほとんど戦争の明け暮れでした。

そこまで彼を掻き立ててたものは何でしょうか?。

チンギスカンは部族を統一して隣国、西夏や金など異民族の侵略を受けず豊かな生活を蒙古の民に与えたかったと言っておりますが、それが理由なら、あのような巨大帝国を構築するまでやる必要はないと思われます。

征服欲、野望を自分の限界まで突き詰めたかったからでしょうか。