普通のバカやキチガイが刃物を持ってもたかが知れますが刃物を持ったキチガイが国の主になれば大変ことになりますがさらに悪いことにプーチン大統領は正気でバカかキチガイと思わせるような大変なことを現実にやっています。
というのも、ユコス事件に対してプーチン政権を批判して2005年プーチン大統領に解任されたイラリオノフ元大統領経済顧問は今回のウクライナ侵攻は21年前から計画していていたと話したからです。
プーチンは正気であり、21年かけて準備権力基盤を固め実行した目的はウクライナ併合・統治であると思われます。
なぜなら、ロシア国民にとってウクライナはスラブ民族のふるさとであり、ロシア(Russia)の起源である882年建国の「キエフ・ルーシ(Kyiv・Rus)」の中心だからです。
現に2021年プーチン大統領は「ロシア人とウクライナ人はひとつの民であり、一体である」と言っています。(参考2)
プーチンはスラブ民族でなくキエフ・ルーシ公国を統治したヴァイキングのDNAを持つ子孫かもしれません。
かつてスカンジナビアからバルト海沿岸に上陸、スラブ人の地に侵入し、殺戮・略奪した残虐・非道で恐れられたヴァイキングはスラブの地を支配し、一時は黒海沿岸まで支配しましたがビザンツ帝国軍や遊牧騎馬民族に敗北し、キエフ近くまで押し返されました。
プーチンは古代国家キエフ・ルーシの北部のバルト海のフィンランド湾の港町レニングラード(サンクトペテルブルク)、に生まれており、共産党政権下で反体制派を弾圧したKGBで業績を上げ、ソ連崩壊後はKGBを引き継いだFSBの最高地位に就き、大統領に登り、国家最高権力を掌握したことでキエフ・ルーシを支配したヴァイキングのオレーグ公と似ているからです。
【プーチンの権力掌握と変貌】
21年前の1999年といえば「強いロシアの復活」の旗印を掲げ、現れたのが47歳の愛国心に燃えた男プーチンでした。
1991年ソ連崩壊後、構成共和国はバルト3国を除き12ヵ国で独立国家共同体(CIS)を形成しました。
しかし、チェチェンは加入拒否、ジョージア(グルジア)、ウクライナなどはロシアから距離を置き、安定化しない中、1999年チェチェンを武力で制圧し功績を評価されたロシア連邦保安庁(FSB)長官のプーチンは首相に抜擢され、1999年12月エリツイン大統領が病気になると大統領代行を務めました。
2000年の大統領選挙運動ではプーチンの取り巻きは「強いリーダー像」前面に出し、ロシア国民の愛国心をくすぐる戦略を展開しました。2000年3月大統領選挙で2位の共産党候補のシュガーノフ30%に対し無所属のプーチンは53%と大きく引き離して第2代ロシア大統領に当選しました。
「強いロシアの復活」を掲げるプーチン大統領政権をさらに強固にするため側近のワシイーリ・ヤケメンコは2000年に学生達を率いて過激なプーチン支持団体「ともに歩もう」を設立し、2005年には極右青年団「ナーシ」を設立しました。
プーチン大統領に忠誠を誓う極右団体の学生・高校生だけでなくロシア国民、特に若者や新興企業家達は豊富な資源特に原油高による経済成長をもたらし、強いロシアを復活させつつあるのはプーチン大統領のリーダーシップによるものだと思うようになっていき、2004年2期目のロシア大統領選挙に70パーセント以上の圧倒的な差で再任を果たしました。
この圧倒的な支持率がプーチン大統領を独裁的権力者に変貌させていき、強いロシアの復活の具現化に突き進むことになったと思われます。
プーチンは共産党政権下の反体制派の弾圧に加担した国家保安委員会(KGB)勤務で業績を上げ、民主政権に移行後、再構成したロシア連邦保安庁 (FSB) 長官に就任、さらに大統領に就任し権力を掌握すると、KGB流の非合法手段を復活させているように思います。これまでもプーチン政権下で反対するジャーナリストやオリガルヒの毒殺やスポーツ選手のドーピング問題など問題を起こしています。
2022年3月4日、アメリカ政府はウクライナ侵攻への代償として銀行の国際決済ネットワークからの排除に続き、プーチン政権の財政基盤を支えているオリガルヒ(新興財閥)など下記4人を含む8人の大富豪と家族に金融制裁を加えると発表しました。
ドミトリー・ペスコフ(大統領報道官で大富豪)
アリシェル・ウスマノフ(天然ガス大手ガスプロムなど株主で大実業家)
ニコライ・トカレフ(ノルドストリームなどを持つ国営パイプライン会社社長)
イーゴリ・セチン(石油大手ロスネフチCEO
今回の金融制裁で三井物産と三菱商事はサハリン2の権益を失うかもしれません。
8人富豪を含め、プーチン政権から擁護され各分野で富を築いた人の多くに2000年頃プーチンの熱狂的支持団体「ともに歩もう」や「ナーシ」のメンバーだった人たちがいるに違いありません。
【ロシアの起源】
ロシア人のルーツであるスラブ民族はアーリア人(インド・ヨーロッパ語族)が分化・形成し、現在のドイツ東北部、ポーランド、リトアニア、ノヴゴロド地域、ベラルーシ、ウクライナ(プリチャチ沼沢地)、モスクワ地域、の広大な地に住んでいた紀元前(BC)20世紀から紀元後(AD)4世紀までの長い歳月の間に先住民や侵入した騎馬民族と融合、分裂、同化を繰り返し、原バルト人、原スバル人と変化、そして、スラブ人が形成されたといいいます。
AD375年頃、東からモンゴルの遊牧騎馬民族匈奴の末裔フン族の侵入により、ヨーロッパの各民族の移動いわゆる「ゲルマン民族の大移動」が引き起こされ、スラブ人もAD5世紀頃にプスコフ湖(ノブゴロド地域)やヴォルガ川、AD6世紀にはバルカン半島北部地域、エルべ・ザールをつなぐ東部全域を占有し、バルト海沿岸からドニエプル川全流域、さらに南はアドリア海沿岸まで拡散していった。
こうしてスラブ人は三つの地域で西スラブ族、南スラブ族、東スラブ族に形成されていきました。
中でもプスコフ湖(ノブゴロド地域)やヴォルガ川、バルト海沿岸からドニエプル川全流域に居住し中核をなしたのが東スラブ民族でした。
モンゴル高原からカスピ海・黒海を経てハンガリー平原まで広がる大草原は紀元前(BC)700年以降からヨーロッパに侵入するイラン系・トルコ系およびモンゴル系の機動性遊牧騎馬民族の通り道や定住地になっていました。
遊牧騎馬民族はこの草原地帯に浸入、狩猟・農耕あるいは遊牧を営むスラブ民族や他部族を圧迫・混交・支配を繰り返しました。
常に不安定なスラブの地にスカンジナビアからヴァイキング(ロシア語ヴァヤリーグ人)が現れ、AD882年形成したのが、ロシア最初の国家「キエフ・ルーシ」でした。
過ぎし歳月の物語(原初年代記)よるとスラブ人の地で内輪もめが絶えなかったため、ルーシと呼ばれたノルマン人に統治を要請、それ以来スラブの地はルーシの地となり建国されたのが「キエフ・ルーシ(Kyiv.・Rus)」である。後にロシア(Russia)になったという。
その後、絶え間なく内輪もめを起こし、そしてビザンツ帝国などの周辺国々や機動性遊牧騎馬民族との攻防を繰り返し、AD1240年にはキエフ・ルーシは元を宗主国とするキプチャク汗国軍(公国はタタール人と呼んでいたモンゴル人)に敗北、240 年間、税(農産物・商品・兵士としての男子)を徴収された従属国家「タタールのくびき」の屈辱を味わうことになりました。
1380年モスクワを中心とするウラジーミル大公国が力をつけ、キプチャク汗国のタタールとの天下分け目の戦いに勝利したことを境に公国同盟軍は勢いが付きます。
その後、内乱とタタール軍との戦いに苦しめられながら戦い続け、1450年キプチャク汗国が分裂すると勝機は公国同盟軍に傾いてきました。
1462年モスクワ大公となったイヴァン三世は1480年オカ川でタタール軍と対峙しますがタタール軍は戦うことなく退却してしまいました。
この勝利により、240年間の屈辱「タタールのくびき」から解放され、大ロシアを統一、1480年「モスクワ大公国」を成立させ、ついに真の独立国家として国際舞台にデビューを果たしたのです。
【参考】
1.「イラリオノフ元大統領経済顧問インタービュー」、3月14日フジテレビ8時ニュース
2.「ウクライナ情勢」、ナショナル ジオグラフィック日本版サイト、2022.02.22
西暦988年、キエフ公国のノヴゴロド公ウラジーミル1世がギリシャ正教に改宗し、クリミアの都市ケルソネソス(古代ギリシャの植民都市だった)で洗礼を受けた。この洗礼以降、「ロシア人とウクライナ人はひとつの民であり、一体である」と、2021年プーチン大統領は宣言している。
3.「米、ロシア富豪8人に制裁」、https://www.bloomberg.co.jp、2022.3.4
4.「世界歴史体系 ロシア史1」、田中陽兒、倉持俊一、和田春樹、1994.10.1、山川出版社
5.「ロシアの歴史」、栗生沢猛夫、2010.5.30、河出書房出版社
6.「地図で読む世界の歴史 ロシア」、ジョン・チャノン、ロバート・ハドソン、外川継男(監修)、桃井緑美子(訳)、2014.8.30、河出書出版社
7.「図解 世界史」、深見悦司、成美堂出版、2006