【訂正】 誤 正
義央(よしなか) → 義央(よしひさ)
野田公民館主催の市民セミナー「団塊世代が定年を迎えるとき~ライフプランの描き方~」第5回の最終回は法政大学 川喜多 喬 教授の話でした。
今、地方の都市や町に衰退がでている。それ対する町おこしの例を何個か挙げ説明をされた。
その中に茨城県真壁町は忠臣蔵で有名な浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)の一族がでたところなので歴史の町として町起こしをしたら良いという話をされました。
真壁町や笠間市と兵庫県赤穂の関係は次のようです。
浅野長政
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長重(真壁5万石3千石) 茨城県真壁町
|(その後笠間5万石3千石に移る)茨城県笠間市
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長直は(赤穂5万3千石に移封)赤穂浅野氏の祖
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長友(赤穂二代藩主)
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長矩(赤穂三代藩主)
浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみ ながのり)は赤穂三代目の藩主である。
それに対し、米沢藩は吉良との関係が深く、近年まで口に出すのもはばかるほどでした。上杉謙信は大いに宣伝するが、吉良で町おこしの宣伝など考えも及びませんでした。
「忠臣蔵」は日本全国、芝居や歌舞伎で美化され、人気を博し、逆に吉良上野介は史実以上に悪者扱いにされ、米沢は吉良上野介の領地愛知県吉良町と同じく、肩身の狭い思いをしていました。
上杉謙信
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景勝
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定勝
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綱勝(上杉四代藩主)
綱勝の妹「三姫」 = 吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)
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綱憲(上杉五代藩主)
というのも、米沢藩上杉家は四代綱勝の妹「三姫」が吉良上野介義央に嫁ぎ、その子供の綱憲が上杉五代の米沢藩主なっていたからでです。
吉良上野介は米沢市や吉良町では、むしろ、良い殿様といわれていたと聞きましたし、米沢は明治の初めまで、「忠臣蔵」の上演を禁止していたと聞きました。忠臣蔵人気は現在でも衰えることはなく、米沢の人でさえ上杉と吉良との関係を知らない人が多くなっています。
私も母に、学生時代だったと思いますが、教えてもらうまでは知りませんでした。