アメリカの歴史_No03「アメリカ大陸古代先住民(パレオ・インディアン)文化の興亡」

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パレオ・インディアン誕生の経緯(アメリカの歴史_No02)
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【北アメリカ南東部に起こった文化】

 

紀元前2000年頃にメキシコから南西部に広まったトウモロコシは紀元後800年~後1000年には主食となった。トウモロコシ、カボチャ、豆、タバコが広まるとともに、紀元後700年頃から農作物の依存度が徐々に高まり、ミシシッピ川を含む東部の大きな河川領域に次々と定住ができていった。

 

紀元前1700年頃、ミシシッピ川下流で後にポヴァティ・ポイントと呼ばれるようになる定住集落と土を盛ったマウンド(古墳)の建設が始まり、マウンド文化として紀元後700年頃まで栄えた。

 

縦横約200メートル、高さ23メートルの鳥の形をした、儀礼用マウンド(神殿)や多くの埋葬用マウンドが作られ、付近に1.6平方キロメートルにわたって多くの住居が建ち並び、2000~5000人が暮らしていた。最盛期の紀元前1500年頃、ポヴァティ・ポイントは北アメリカ大陸最大の交易地として繁栄し、住民は幅広い交易網によって銅や石製品も入手していた。

 

紀元前1000年~紀元後100年、ミシシッピ川支流のオハイオ川流域に興ったアデナ文化では埋葬用マウンドがつくられた。身分の高い死者は、銅やビーズ、布など副埋葬品とともに葬られた。

 

紀元前100年~紀元後500年、ミシシッピ川支流全域でみられたホープウエル文化では、より大型のマウンドが造られた。多くは丘陵やピラミッド型だが、熊、蛇、鳥、トカゲ、ワニといった動物の形をしたものもつくられた。

 

社会組織が生まれ、階層社会が形成され、交易網ができ、大規模なマウンドも沢山つくられるようになった。こうして、紀元後1100年頃に最後のマウンド文化であるミシシッピ文化が花開き、紀元後1300年まで栄えた。

 

ミシシッピ川ミズーリ川の合流地点、イリノイ州コリンズビル(ミズーリ州セントルイス郊外)のカホキアは当時、1万人~2万人の人口を誇る都市であり、大平原地域からメキシコ湾に及ぶ広大な交易拠点であった。

 

都市カホキアは8.9平方kmの土地の中央広場には20基の神殿マウンドと100人~1000人の住居が建ち並び、神官、王族、氏族の長などが住み、埋葬、収穫、狩猟、戦争ための祭祀活動を行っていた。さらに囲むように100基のマウンドと平民の住居が建っていた。中でも中央広場にある長さ304m、幅213m、高さ30mのモンクス・マウンドは水平になった上部にサッカー場6面作れる広さがあり、北アメリカ最大の神殿マウンドであった。

 

しかし、カホキアではトウモロコシを集中して作り続けたため、土地が疲弊し、14世紀までに衰退してしまった。ミシシッピ文化の名残は北アメリカ南東部で16世紀まで見られたがヨーロッパ人の侵入とともに入ってきた疫病で人口が激減して、ミシシッピ文化は消滅してしまった。

 

【北アメリカの南西部に起こった文化】

 

氷河時代が終わった紀元前8000年頃から紀元元年頃(ペコス分類で言うバスケット・メーカ第Ⅰ期および前期バスケット・メーカ第Ⅱ期)までの約8000年間、南西部では文化の痕跡が見当たらない。紀元前800年頃にコロラド高原やリオグランデ川流域に狩猟と農耕を営んでいた部族がいたという説もあるが南西部の文化はモゴヨンの人々やプエブロ族が住み着いた西暦元年から西暦200の後期バスケット・メーカー第Ⅱ期の時代から始まると考えられる。

 

ペコス分類
バスケット・メーカ第Ⅰ期(紀元前8000~紀元前1200)
前期バスケット・メーカ第Ⅱ期(紀元前1200~西暦50)

 

バスケット・メーカ第Ⅱ期の西暦元年頃、ニューメキシコ州南部からメキシコ北部の山岳地帯にモゴヨン文化が興り、トウモロコシ、豆、カボチャが栽培され、後に綿花も伝えられ、白黒の彩文土器が作られ、食料の貯蔵も行われたが西暦1400年には衰退した。

 

メキシコ以北でもっとも長く続いた文化はプエブロ族がニューメキシコアリゾナ、ユタ、コロラドの4州が出会う渓谷に築いたアナサジ文化である。メサ・ヴェルデ(現在、メサ・ヴェルデ国立公園)とプエボロ・ボニート(現在、チャコ文化国立歴史公園)にアナサジ遺跡がある。

 

プエブロ時代は次の6つの時期に分けられる。
1.後期バスケット・メーカ第Ⅱ期 西暦50~西暦500
2.バスケット・メーカ第Ⅲ期 西暦500~西暦750
3.プエブロ第Ⅰ期 西暦750~西暦900
4.プエブロ第Ⅱ期 西暦900~西暦1150
5.プエブロ第Ⅲ期 西暦1150~西暦1350
6.プエブロ第Ⅳ期 西暦1350~西暦1600

 

プエブロ族は後期バスケット・メーカ第Ⅱ期の西暦100~西暦200年にコロラド高原の森林の近くで周囲が崖で上が平らな岩山(メサ)や川の付近に竪穴住居を作り、住み着いた。

 

やがて、プエブロ族はアドービ煉瓦(泥や粘土や糞などで作る日干し煉瓦)で小屋を作り、犬を飼い、尖った石を付けた槍で狩猟を行なうとともに、七面鳥の家畜化を図り、野生の植物の採集やトウモロコシやカボチャや豆の栽培を行い、野生植物や作物の種や小物を入れる籠を作り、貯蔵し、生活をしていた。

 

アメリカ南西部の山や高原は豊かな森林地帯と渓谷と川からなるが岩山と崖とが続き、寒暖の差が激しく、降雨が少ないうえ、予測不能で、土壌がすぐに痩せてしまい、森林の再生率が低い、過酷な自然環境の土地であった。

 

バスケット・メーカ第Ⅲ期(西暦500~西暦750)には、水路や貯水池からなる灌漑設備を作り、農業の安定化や人口増加に対応した。籠作りの技術が向上し、目の細かい籠が作られるようになり、土器も作るようになった。

 

プエブロ第Ⅰ期西暦(750~西暦900)のある時期、メサ・ヴェルデなどの断崖を切り開き住居を築き、移動した。なぜ、彼らは高い崖に梯子で出入りしなければならない断崖壁面に住居を築いた理由は分からない。森林が広がる断崖の上に通じる道を切り開き、渓谷の川から水を引き入れ、灌漑設備を建設したので外界から孤立したままでも、生活は維持することができた。

 

プエブロ第Ⅱ期(西暦900~西暦1150)、人口が増えると共にアドービ煉瓦で積み上げたいくつもの住居を作った。中にはアパートのような集合住宅もあった。集合住宅は「プエブロ」という長方形の部屋と「キヴァ」という丸い部屋がある。キヴァは収穫、葬儀、戦争の祭祀場とでして使われた。

 

籠作り族とも言われアサナジの人々は工芸が重要な役割を果たしていた。赤土で色付けた土器、白と黒の幾何学模様を着けた土器へと進歩していった。

 

プエブロ第Ⅲ期(西暦1150~)に入るとアナサジ文化の黄金期を迎えた。そして、集合住宅は断崖宮殿と呼ばれるほどになった。人口の増加に合わせ、アドービ煉瓦壁の箱型住居を横または縦に置きテラスや踊場を作り、段型にして、3階から4階立ての集合住宅を建設し、拡大していった。

 

1100年頃、メサ・ヴェルデにはおよそ2500人のプエブロ族が暮らしていた。断崖宮殿の部屋数は220個あり、また、一族の儀式が行われる祭祀場であるキヴァは23個あり、この地域で最大の建物であった。

 

チャコ峡谷には政治・経済・祭祀の中心地でプエブロ・ボニートと呼ばれる峡谷最大の集合住宅があった。

 

ところが1300年頃にアナサジの人々は忽然と姿を消した。おそらくは南方・南東の方に移動したと考えられる。なぜなら、アメリカ南西部の先住民社会の中にプエブロ一派のズニ族、ホピ族や16世紀に入ってきたナヴァホー族、アパッチ族はアナサジ文化を吸収し、今日でも保持しているからである。

 

また、ホホカムの人々は800年頃からアリゾナ州南部のソノラ砂漠地帯に灌漑農業設備を作り、雨水を集め貯水して作物をつくり、貯え、村落を作り、14世紀~15世紀、ホホカム文化として栄えたが、予測不能なかんばつと土壌の変化により15世紀までに衰退した。

 

南西部の文化の崩壊によって遺棄されたものとして、1130年頃のミンブレ、12世紀中期もしくは後半のチャコ峡谷(プエブロ・ボニート)、ブラック・メサ、ヴァージン・アナサジ、1300年頃のメサ・ヴェルデ、カイエンタ・アナサジ、1400年頃のモゴヨン、15世紀頃のホホカムがある。

 

【インディアン文化の衰退と消滅の原因】

 

紀元前2万年~前1万5000年渡来した最初のアメリカ人が15世紀に侵入してきたヨーロッパ人にインディアンと呼ばれるようになるまでの約1万数千年の間、絶えず移動があり、決して統合されることはなく、隣の村々との間でさえ異なる言語で語り、敵対と和平を繰り返しながら生活していた。

 

南北アメリカ大陸において15世紀までにインディアンが政治組織を持ち、数百万人規模の人口と文明を持つ国を築いた事例は数個に過ぎない。他は政治組織を持たない単一部族からなる共同体であり、数万人規模の都市レベルものもそれほど多くなく、ほとんどが数百人以下の村レベルの共同体であった。

 

これらの共同体は人口が増加すると、狩猟・採集においては、過度な狩猟や採集により、獲物や植物や種子が減少するとともに、土地の荒廃を招き食料確保が困難となった。農業においては土地・技術などに限界があり、農地や灌漑設備の拡張ができず食料の増産が困難となった。土地を巡る争いが頻繁なり、最終的には大干ばつや大水害などで壊滅的な打撃を受けた。

 

メキシコ以北のほとんどのインディアン文化はわずか数世代で崩壊した。そして、人々は安住の地と住居を遺棄し、分散・移動または消滅していった。

 

中南米(メソアメリカ)やペルーやコロンビアの帝国のような高度に進んだインディアン文明さえ、衰退期を迎え、15世紀侵入してきたヨーロッパ人に征服され、消滅してしまったのである。

 

【参考】
1942年以前のインディアンの歴史は語ることができないと言われている。というのも、歴史という以上、ある程度、継続のある年代と出来事の記録を必要とするからである。もっとも進んだ文明を持っていたアメリカ北東部のイロクォイ族連合、メキシコ高原のアステカ帝国中南米のマヤ帝国、ペルーのインカ帝国のインディアンでさえ、文字を持たず、彼らが記録にとどめた事柄は壁画や装飾品や語り継がれた神話だけだったからである。(*参考1.)
1.「アメリカの歴史Ⅰ 先史時代―1778年」、サムエル・モリソン、集英社文庫、1997年9月25日
2.「大学で学ぶアメリカ史」、和田光弘、ミネルヴァ書房、2014年4月30日、初版第1刷
3.「文明崩壊 上」、ジャレッド・ダイアモンド草思社、2005年12月
4.「バスケット・メーカー文化」、wikipedia、2015年5月
5.「アナサジ文化」、wikipedia、2015年5月
6.「復原透し図 世界の遺跡」、ステファニア・ベリング、(株)三省堂、1994年10月10日
7.「世界遺産地図」、インターナショナル・ワークス編、(株)幻冬舎、2003年9月25日
8.「絵でみる 古代世界地図」、アン・ミラード他、(株)同朋舎出版、1994年9月20日