経済的余裕がスリランカ民族紛争を停止に向わせる

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2週間前、H大に行きのバスに乗り合わせた時、大学で見かけた先生が上手な日本語で挨拶し、話かけてこられ、それがきっかけで、話をするようになりました。

その方はスリランカコロンボ大学からH大に客員教授として来られ、ビジネス経済学や経営学を研究されている経済学博士のKさんという方でした。

彼は40歳位の方で単身で来られ、“時間的余裕が持て論文を数本執筆することができた。H大での研究生活には満足している“と学問に対する熱意が伝わってきました。

私は高校の人文地理でセイロン(現在のスリランカ)と習い、私の知識は特産品のセイロン紅茶ぐらいしか持っていませんでした。なのに、知ったかぶりして、お国は安定しているから良い国でしょうと言ってしまいました。

全く違うとやんわり否定され、20年以上続く民族紛争を抱えていると言われて、私の無知さ加減が露見してしまい恥ずかしくなりました。

指摘された後、2週間しか経ってないのに下記のように関係記事が5件も載り、不用意な発言を反省するとともに、スリランカの抱えている複雑で根強い、深刻さを改めて認識しました。

2006.10.13:北部ジャフナ半島で11日に起きた戦闘で「タミル・イーラム解放のトラ(LTTE)」戦闘員200人以上が死亡、国軍兵士も少なくとも130人が死亡した。2002年2月の停戦合意以降、1日の戦闘としては最悪の規模となる。
【参考】2002年2月のジュネーブでの対話の結果、政府とLTTE双方が2002年の停戦協定遵守を確認したが、4月のトリンコマリーでの事件をめぐり警察とLTTEが衝突して以来、戦闘や自爆テロが続いている。

2006.10.16:コロンボから240キロ離れた中部ハバラナで16日午後、爆弾を積んだトラックが海軍兵が乗ったバスの車列に激突し、海軍兵90人以上が死亡した。
海軍兵らは北東の港町トリンコマリーを出発し、休暇に向かう途中だった。途中車を乗り換え、休暇を終えて任務に復帰する別の海軍兵の一団と交代する予定だった。
スリランカでは7月以来、LTTEの衝突で、民間人100人以上を含む1100人近くが死亡している。

2006.10.18:明石康スリランカ国平和構築及び復旧・復興担当の日本政府代表が「タミル・イーラム解放の虎(LTTE)」の政治部門トップ「タミルセルバン氏」と会談し、ジュネーブで10月28日から予定されているスリランカ政府との直接対話にLTTEが出席するよう説得した。

2006.10.18:スリランカの南の都市ゴールで海軍の哨戒艇にLTTEの爆弾搭載小型船舶5隻の自爆テロで2人死亡20人以上が負傷した。
【参考】ゴールの旧市街とその要塞群は世界文化遺産に指定されている。

2006.10.20:北部ムライティブ県沖で海軍パトロール艇とLTTEの小型艇の間で戦闘が起き、LTTE戦闘員少なくとも20人が死亡した。

【紛争の始まり】
1948年イギリス連邦自治国「セイロン」としてイギリスから独立して以来、多数派(78%)のシンハラ人(仏教徒)を優遇し、それ以外の人(18%タミル人はヒンドゥー教徒ムーア人他)を差別政策をとってきた。
1956年シンハラ語公用語と定め、これによりタミル人は満足な仕事に就けなくなる人が増加した。
また、タミル人が多く住んでいる北部や東部に移住をシンハラ人の移住が進められ、タミル人の不満が広がった。

1972年イギリス連邦自治国「セイロン」から「スリランカ民主社会主義共和国」と改めた。同時にタミル人過激派は「タミル・イーラム解放のトラ(LTTE)」を結成し、独立を求め闘争を始めた。

1983年には、コロンボでタミル人によるシンハラ人虐殺事件が起こり、反発したシンハラ人が無差別にタミル人襲撃事件を引起した。この暴動が国中に広がり、これをきっかけにLTTEと政府軍による全面的な紛争が始まった。

1984年首都は旧首都コロンボの中心部から東に約15キロの離れた「スリ・ジャヤワルダナプラ・コッテ」(通称コッテ)という都市に変わりました。

Kさんは“現在もスリランカでは満足な仕事につけない人たちがおり、少数派の民族は虐げられていると不満を持っている。”紛争の最も大きな原因の一つは国の経済にあると言っていました。

現在、インド経済と同様にスリランカも年8%で経済成長を続けているので持続させ、国を経済的を安定させれば誰でも仕事に就くことができ、紛争も解決の方向に向うと言っていました。

彼は日本のビジネスを研究し、自国に適用できる解決策を見出し、自国の経済基盤の構築に貢献しようとしているのです。

スリランカ国旗の由来】
剣を持つ獅子はシンハラ王朝以来の国の象徴。四隅の菩提樹の葉は仏教、サフラン色(淡紫色)はヒンズー教又はタミル人、緑はイスラム教又はムーア人を表わし、民族の融和を象徴する。