平安時代中期の太政官政治

太政官組織図

二官八省制における太政官は現在の内閣に相当し、太政大臣、左右大臣、大納言、弁官、少納言、外記、史から構成されています。
大宝律令制定当時の太政大臣は名誉職のようなもので、皇族で皇太子につぐ有力者がなると考えられていました。

759年に格の高い太政官の地位に臣下の藤原仲麻呂がはじめて太政大臣に任命され、やがて実権を握る実力者の象徴となりました。
平安時代前期に藤原良房と基経(もとつね)が藤原氏の最上位の者がこの地位につくようなる方式をつくり、独占していきます。

左大臣と右大臣は太政大臣に持ち込まれた政務を管轄し、重要案件を扱い、決裁にあたりました。
大納言は天皇に近侍して諸事を天皇に現上したり、下に天皇の命令を伝える役割と左右大臣を補佐する役割から政務の小事の決裁をおこないました。

律令制定当時、左右大臣、大納言が太政官政治の運営にあたりましたが、のちに摂政、関白、内覧、内大臣中納言、参議が置かれ、太政官政治を動かす三位以上の彼ら議政官を公卿と呼ぶようになりました。
(三位以上の位階を持っている者は公卿とされたが、国政にかかわれない、権力のない者は非参議と呼ばれた。)

弁官は太政官と八省の連絡役で政務にあたる左右大弁、左右中弁、左右小弁から成っており、弁官の下に文書の作成を行う左右大史、左右少史がおりました。

少納言は大少外記をひきいて除目(官職の任命)や叙位(位階の授与)や詔勅天皇の命令)の文章の起草や駅鈴(役人が諸国旅行時に利用するため官道に置いた馬の借用証)・関契(関所の通行証)の管理、事務行いました。

大少弁官の下に史生(ししょう)10人、使部43人、左右大少史の下にそれぞれ史生(ししょう)10人、官掌(かじょう)2人、使部80人がおり、太政官の事務、雑務を行いました。

しかし、蔵人所が置かれると天皇の命令の伝達は蔵人の職務となり、少納言の地位は低下していきました。

【参考】
1.「官職要解 講談社学術文庫」 和田英松 講談社 1983.11
2.「古代史を知る事典」 武光誠 東京堂出版 1996.6.15
3.「平安大事典」 倉田実/編 朝日新聞出版 2015.4