73歳のリベンジ 小説「ドクトル・ジバゴ」の読破

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59年前のある出来事
暇にまかせ、ロシア革命について調べているうち、映画「ドクトル・ジバゴ」で流れた曲「ララのテーマ」とともに、59年前の苦い思い出がよみがえってきました。

 

私が中学2年生だった1958年10月、ソ連の詩人であり、作家であるボリス・パステルナーク著作の小説「ドクトル・ジバゴ」が評価され、ノーベル文学賞を受賞しました。
しかし、ソ連政府は「この小説はロシア革命を犯罪として書こうとした」と非難し、受賞すべきでないと圧力をかけたことにより、パステルナークはノーベル文学賞の受賞を辞退し、世界中が大騒ぎになりました。

 

パステルナークはこの小説を10年かけて1955年に書き上げました。
1953年のスターリンの死で体制に自由化の兆しが見えていたので出版しようとしましたが、期待した自由化は進まず、ソ連政府から出版を拒否されてしまいました。
しかし、既に原稿はイタリアに持ち込まれており、1957年、イタリア語に翻訳され、相次いでイギリス、アメリカ、日本など、各国で翻訳出版され、世界中に広がり、センセーションを巻き起こしました。

 

14歳の私はただ、ノーベル賞事件で話題になっている世界的に有名な小説ということだけで何もわからないまま町(山形県小国町)の図書館に予約し、借り出しました。
読んでみると、内容がまったく理解できません。
顔見知りの司書の方に無理を言って借りただけに恥ずかしいやら、なさけないやら、しばらく図書館に行けませんでした。このことがトラウマになり、ドクトル・ジバゴに関することを封印していまい、数年後の1965年、ハリウッドで映画化されましたが見ることもなく、いつしか、忘れてしまいました。

 

映画「ドクトル・ジバゴ」は映像に流れる音楽「ララのテーマ」とともに世界的にヒットし、アカデミー賞を獲りました。そして、音楽はラジオやレコードで流れ、映画は見ずとも脳裏に焼き付きました。

 

あれから、59年経った2017年、ロシア革命とその頃のロシアの社会についての知識を少しばかり仕入れたので、野田市図書館から小説「ドクトル・ジバゴ」を借り出し、読破し、さらに、これまで一度も見ることがなかった1965年の映画(DVD)を見て59年前のトラウマ払拭に挑戦しました。

 

小説「ドクトル・ジバゴ」の背景と内容の超概略
読後感とその他
革命(1917年)から内戦(1918年)に発展、ボルシェビキは皇帝一家を銃殺刑にし、貴族・富農を撲滅し、党内外の権力闘争で反対派を粛清し、共産主義体制の社会に移行が始まっていました。
そんな社会の中、富裕層で共産主義を受け入れない普遍的な思想を持ち、感受性豊かなジバゴのような人は通常生き延びることは不可能でした。

 

しかし、ジバゴは幸運でした。赤軍の高級軍人である異母弟「エヴグラフ」やラーラの夫で軍事委員「ストレーリニコフ」やラーラの母のパトロンの弁護士・実業家「コマロフスキー」の助けにより、度々の窮地を逃れることができたのです。

 

この小説はロシア革命という異常な社会を背景にしていますが、主人公がやっている行為は現代で言う不倫です。
人の道に外れる行為を表現した物語がなぜ評価されたのか。
あくまで不倫という愛の行為は人が倫理上の規約を設け、理性で抑制することを教えているに過ぎなく、「自然な感性や生き方を求め、純粋に自然的に美しい女性に魅かれてしまうのは愛のひとつの姿である」と考えられ、このような愛は古来より決してなくならない、不可解なものだからなのか。

 

愛については良くわからないので省いて、私が考えたこの小説の優れた点を列挙してみました。

 

一.ロシア革命により、政治体制・社会構造が西欧と全く違う国になってしまいました。この過程で社会は大混乱に陥り、民衆は戸惑い、翻弄されました。
ソビエト政権確立後、共産主義国家として厳しい情報統制を敷いたため、ロシア革命一党独裁の体制についてのロシア国民の率直な意見・情報などは国外に聞こえて来ませんでした。
当時の記録や詳細情報が明らかになるのはソ連邦崩壊後の1988年以降で、当時、ロシアを知るには情報が不足していました。

 

そんな時、この小説はロシア革命を経験した作家が人間本来の生き方や人を愛するということに自由な考え方を持っている主人公やその他登場人物の目を通して、率直に表現して、ロシアの民衆の声として伝えていること。

 

二.内容がロシア正教やロシアの歴史・慣習・宗教行事や世界な詩や文学作品からの言葉や文章を織交ぜ、高度で拡張高い表現をしていること。

 

三.シェークピア作品のハムレット、宗教行事、聖書に記載された聖人や記事、ロシアの自然、生活を詠った優れた詩24編をジバゴがラーラに捧げる「詩編」として記載されていること。

 

ソ連政府に睨まれたパステルナーク
ソ連政府はこの作品が国内で販売されるとロシア革命共産主義思想の欠点や矛盾がクローズアップされ、政治体制の屋台骨を揺るがしかねないと判断し、出版禁止処分と賞の辞退に迫ったと思われます。
しかし、ソ連政府の禁止令が一歩遅く、原稿はイタリアに渡り、20世紀世界文学の名作として1957年11月に出版され、世界に広がったということです。

 

パステルナークはノーベル文学賞を辞退した2年後の1960年5月30日、肺癌のため、自宅でひっそりと亡くなりました。享年70歳でした。
ソ連政府による小説「ドクトル・ジバゴ」の出版禁止令が解け、ロシア国内で出版されたのは実に30年後のソ連邦崩壊後の1988年でした。

 

--- 平成29年9月27日 ---