日中韓の歴史と考え方の大いなる相違

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日中韓の歴史年表
2014(平成26)年7月3日韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領は中国に国賓として迎えられました。そして、中国の習近平国家主席は、「侵略の歴史を否定し、歪曲、美化していることを決して許さない、韓国とともに反日共闘を進めよう」と訴えると、朴槿恵(パク・クネ)大統領はそれに応える姿勢をとりました。

 

確かに、明治以降の帝国主義日本は朝鮮や満州を植民地化し、恨みを残す仕打ちをしたことは事実です。しかし、その報いで日本の国土は壊滅的な打撃を受け、莫大な数の国民が犠牲になりました。戦後の日本は二度と過ちは繰り返さないと、反省とお詫びを込め、韓国、中国に経済支援を行ってきました。
朴槿恵大統領の父親朴正煕(パク・チョンヒ)元大統領の1965年日韓基本条約と漢江
 
(ハンガン)の奇跡 

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1972年田中首相周恩来首相の会見と1978年の日中平和友好条約を調印
 

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以来、10数年前までは日本の誰もが、韓国、中国とも良好な関係を維持し、経済・国力でライバル関係になることになっても、これほどまで露骨に、国の信頼を貶める発言や行動を起こし、しかも、考え方の相違は埋まらずとも未来に向けて話し合うことすら拒否するとは予想だにしていませんでした。

 

特に、韓国は、日本と同じ民主主義国家陣営でありながら、しかも、戦後60年以上も経っているにもかかわらず、歴史を蒸し返し、不利益になることを承知の上で日本を憎み、反日行動をとるのは、なぜかよくわかりませんでした。

 

しかし、図書館から借りてきた韓国の小学6年、中学校の教科書、そして高校・一般に使われている「韓国の歴史」をみてある程度わかってきました。

 

韓国の歴史教科書すべて、民族の受難の歴史を詳細に記述しています。特に、豊臣秀吉天下統一後の倭軍(秀吉軍、文禄・慶長の役)の侵略、虐殺、略奪、そして、明治以降の日帝大日本帝国)の植民地化による民族、民族文化の抹殺政策を実施したとして多くの頁を割いて解説しており、これを小中高まで勉強しています。

 

10年~20年前、反日感情を持つ人々の割合は半々だったとしても、このような「恨の歴史」を再三再四、習った生徒・学生が社会に出て、人口の大きな割合を占めてきて、現在では国全体が反日に傾いてしまったと考えられます。
竹島問題を日韓対立の原因にクローズアップした李明博元大統領は朴正煕政権時代に反日の学生リーダーで逮捕された経歴の持ち主でした。) 

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日本を一方的に非難していますが、韓国が外国からの脅威を跳ね返すことができず、日本の植民地化を許してしまった韓国の政治や社会にも問題があったと思っています。(もちろん、日本の行為を正当化しているわけではありません。)

 

2006年、韓国歴史ドラマを見て以来、韓国の歴史に興味がでて、時々、調べていたので、私はその原因の一つに儒教科挙身分制度の影響があるのではないかと思っていました。
韓国歴史ドラマ「チャングムの誓い」

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それを裏付ける記事が読売新聞(2014.6.16)に載りました。韓国思想研究家京都大学教授 小倉紀蔵氏によると物事の細部を詰めない韓国社会の適当主義は朝鮮王朝時代の「科挙」や「儒教の伝統」が由来すると語りました。

 

中国の場合は毛沢東中国共産党一党独裁を基礎として建国し、民主主義国家とはほど遠い、国になってしまいました。毛沢東は1965~1975年の文化大革命により毛語録を展開、1973年儒教を復活させようとした林彪を失脚させるため、韓国・日本の人々の考え方に大きな影響を与えている孔子孟子儒教を否定(批林批孔)したため、リーダーや国民の道徳的規範は現在も揺らいでおり、日本の常識では考えられない道徳的問題が起こっています。

 

1894年(明治27年)、朝鮮王朝末期に500年続いた科挙身分制度が近代化の弊害になっているとして統治していた日本(日帝)が廃止させました。これに反発し、抗日運動が激しくなるが、大きな改革が実現できず、1897年、朝鮮王朝の国王高宗そのまま移行し、大韓帝国を成立したので、両班(ヤンバン)の文官主体の政治体質が残り、古い儒教思想が残ったと考えられます。
(中国は581年、隋の時代に科挙制度を設定、1905年、清の末期に廃止した。)

 

朝鮮王朝時代、科挙を合格した両班の文官は位階が正一位と最高位まで出世でき、政権の中枢を担うことができました。武官の場合、両班や中人や農民が科挙を受験できましたが、合格してもたとえ両班でも武官の正三位が最高位で中人や農民の場合は底辺の地位におかれました。

 

日本の場合は1189年平清盛が政権を平安貴族の藤原氏から取り上げ、武士政権を起こし、源頼朝が確立して以来、1968年の明治維新まで実に779年間、武士が日本を統治してきました。武士は儒教朱子学論語など)や神道を取り入れ、武士の生き方の基本や道徳的慣習とし、長い年月をかけ変化を遂げ、武士道精神として伝えられてきました。
武家社会の始まり

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髙き身分に伴う義務 

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近代化に向けて革命を成し遂げたのが武士道をバックボーンに持った下級武士達です。1899年(明治32年)、英語で執筆した武士道を出版し、武士道精神を世界に知らしめた「新渡戸稲造」は欧米列強の圧迫の嵐の中、明治維新を遂げ、日本の舵取りとなった政治家達は武士道以外の道徳的教えをまったく知らない人々であったと記しています。
植民地主義
 

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武士道の根本となる精神はキリスト教の精神と同じであるが、当時の帝国主義日本においてはナショナリズムに駆られ、相手の国を顧みることができなかったことが日本にとっても大きな間違いでした。

 

身分制度
両班(ヤンバン) : 高級官僚につける最高位の身分(貴族)、農作業や商売のような仕事に手を汚さず、学問だけをした。
中人(チュンイン) : 医者、通訳官、天文、法律などの実務に付く人、各官庁の低い官職などの身分
常民(サンミン) : 農業、工業、商業従事者
賤民(チョンミン) : 奴婢、旅芸人、巫女、白丁(ペクチュン、獣を取り扱う)、笠、皮細工、柳細工など職人
科挙
朝鮮王朝時代定着した官吏登用試験で試験科目は文科、武科、雑科(技術者)である。
文科 : 両班の子弟、その中の成均館(ソンギュングァン)で勉強している儒生や生員科や進士科に合格したものだけが受験できる。科挙に合格した人が馬に乗り、家のものや雇人を従え、3日間、師匠や知り合いのところを訪ねながら、都ソウルを一巡りした。このとき、旅芸人たちが踊りや楽器や軽業などやったことを遊街ユガという。
武科 : 両班、中人、農民が受験できた。

 

【参考】
1.「セウォル号事故と韓国社会」、韓国思想研究家 京都大学教授、小倉紀蔵、読売新聞、2014.6.14
2.「国定韓国小学校社会教科書 わかりやすい韓国の歴史」、三橋ひさ子 他 訳、(株)明石書店、1998.3.31
3.「国定韓国中学校社会教科書 入門韓国の歴史」、三橋広夫 他 訳、(株)明石書店、1998.11.20
4.「韓国の歴史」、監修「李景珉」、水野俊平 著、(株)河出書房新社、2007.9.20
5.「絵で見る韓国の歴史 第6巻 李朝1」~「絵で見る韓国の歴史 第9巻 抗日闘争と解放」、韓国出版元 啓蒙社、金溶権 訳'、(株)エムティ出版、1993.2.20
6.「武士道」、新渡戸稲造 著、岬龍一郎 訳、PHP文庫、2005.12.14
7.「世界史年表・地図」、亀井高孝・三上次男他、吉川弘文館、2014.6.16
8.「孤将」、金薫 著、蓮池薫 訳、新潮文庫、2005年5月