NHKスペシャル「パール判事は何を問いかけたか」について

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毎年8月15日の終戦記念日が近づくと戦争の悲惨さを風化させないために、国やメディア識者等が新聞やテレビや雑誌などで特集番組を組み啓蒙を図っています。

 

東京裁判での尋問調書がアメリ国立公文書館に眠っており、60年たった今、NHKが改めて調査し、いくつかの新事実を発見し、NHKスペシャルで放送するとこの8月に前宣伝しました。

 

その番組はNHKスペシャル「パール判事は何を問いかけたか~東京裁判 知られざる攻防~」というドキュメンタリーで8月14日(8月24日再放送)に放送されました。

 

東京裁判については中学の社会に出てくる内容しか知らないので手っ取り早く日本映画「東京裁判」を見ようと思いながらもまだみていませんでしたので良い機会と思い8月24日の番組を見ました。

 

中国映画「東京裁判
ブログのテーマとしては時期を失してしまいましたがメモをとっていましたので追加し、自分用の記録として残すことにしました。

 

東京裁判の概要】
1946年5月3日戦争責任を問われた日本の指導者28人いわゆるA級戦犯を裁く極東国際軍事裁判東京裁判)が東京市谷にある旧陸軍省講堂で開かれました。

 

判事
1. パール(インド)
2. レーリンク(オランダ)
3. ウエップ(オーストラリア): 裁判長
4. クレマー(アメリカ)
5. パトリック(イギリス)
6. ザリヤノフ(ソ連
7. ベルナール(フランス)
8. マックドウガル(カナダ)
9. ノースクロフト(ニュージーランド
10.梅汝敖(中国)
11.ジャラニラ(フィリピン)

 

ウエップ判事が開廷を宣言、キーナン首席検事が11カ国の名による起訴状を掲げ
「平和に対する罪」
殺人罪および殺人共同謀議の罪」
「通例の戦争犯罪および人道に対する罪」
の三つに分類した具体的な55項目の罪を読み上げ起訴しました。

 

11月12日に刑の宣告を含む判決が宣告され、東条英機をはじめ7人が死刑になりました。

 

裁判が始まった5月3日の翌日に被告の大川周明がウエップ裁判長が休憩を宣告したその直後、突然、東条英機のはげ頭を平手でピシャリとたたいたことはあまりにも有名です。この後、精神鑑定を受け入院しました。

 

また、11人の判事のうち、インドのパール判事だけは最後まで全員無罪を叫んだとして日本では今なお好感を持って受け取られています。

 

【パール判事は何を問いかけたか~東京裁判 知られざる攻防~の概要】
上記が公式の事実ですがこの番組ではアメリ国立公文書館に眠っている膨大な尋問調書を発掘し、これまで知られなかったパール判事と10人判事の議論とパール判事が「全員無罪」を主張した背景などを探ったものでした。

 

ラダビノード・パール判事は平和主義者であり、頑固なまでに正義と法を守る人で決して日本が犯した行為を正当化して「全員無罪」をしたわけでなく、むしろ満州などを力ずくで支配し、数万のアメリカ人捕虜を移動させ病気と飢えで大量の死者を出した「バターン死の行進」は残虐行為は許しがたいものであると言っています。

 

パール判事は連合国側が新しい法律を作って、裁判に臨んだことに対し、「新しい法律は時間をさかのぼって適用はされなく、現在の視点から裁いて違法とすることは許されないと」ということをついたのでした。

 

西欧諸国が自国の領土としていてアフリカ、中東、南米などの国や島の権益を保持しているがほとんど20世紀前半以前に武力などによって獲得したものである。今回の戦争にしても連合国が自分の国は「正当な戦争」と思っているかもしれないが「正当な戦争」などひとつもないといっています。

 

日本は満州の支配権を武力で獲得したもので、ある意味で西洋諸国のやり方を模倣したものであり、その願望は明治時代の初期、西洋に追いつけ、追いこせという固定観念が生まれたものであり、実行したものであると言っていました。(だからといって支持しているわけではありません。)

 

パール判事の育ったインドはイギリスの植民地として虐げられてきた過去があり、パール判事はガンジーを尊敬する非暴力主義者であり、欧米の植民地主義に対して反感を持っていました。

 

番組ではオランダのレーリンク判事は11人の判事の中でただ一人、原爆投下後の広島や長崎を視察に行き、その悲惨な光景をまのあたりにして、戦争を正当化しようとしている連合国側に疑問を感じ、パール判事の考え方を次第に理解してくるのでした。

 

しかし、大勢はかわらず、結局、被告人すべて有罪になり決着がつきました。

 

世界が注目した東京裁判の裏側では神聖と思われていた判事が母国の国益や事情を抱え、生々しい議論を繰り広げたということを知った後は絶対と思っていた東京裁判は私にとってより身近に感じられるようになりました。
 
(1)「極東国際軍事裁判」 フリー百科事典「ウィキペディアWikipedia)」
(2)「20世紀の全記録(クロニック)」、小松左京堺屋太一立花隆講談社、1987年