第二次大戦後、金日成(キム・イルソン)がどのようにして独裁体制を築いたのかの解説がありました。
キム・イルソンはソ連派ホガイを地方に追放し、自殺に追い込み、国内派をパク・ホニョンをスパイ容疑で処刑し、そして、反対する国内派、ソ連派、中国派を次々と粛清し、1956年末には権力の頂点に立ったのでした。
キム・イルソンが独裁体制を揺ぎ無いものにした1962年、キム・イルソンはいかに偉大な指導者であるか知らしめるため「祖国光復のために」という1945年の朝鮮解放後、キム・イルソン歓迎群集大会から1962年までの北朝鮮建設過程をテレビ放送で全人民向けに行いました。
そのとき【私(キム・イルソン)は1945年10月4日党創建後、人民にあいさつしました。私が演壇に立つと群集の歓喜の声は最高潮に達しました。そして、私が生まれ故郷に帰ったと聞いて遠くの村からも人々が列をなしてやってきました。】と報道されました。
1945年8月15日、日本は連合軍に無条件降伏し、朝鮮は開放されると8月24日にソ連軍が平城に進駐してきました。朝鮮半島全体がソ連に支配されことを恐れたアメリカ軍は北上し、その結果、38度線を境に分割占領行なうことになりました。
ソ連は朝鮮に進出するに当り、北朝鮮の指導者を誰にするか検討しました。その結果、大戦中、満洲で日本軍を悩ましたこともあり、当時、ソビエト極東軍88特別旅団の中で指揮していたキム・イルスンに白羽の矢を立てたのでした。当時、33歳の若さでした。
当時、キム・イルソンを北朝鮮の指導者として教育・宣伝に当ったのがソビエト軍特別宣伝部長グレゴリー・メクレルでした。彼は計画し、実施したことをメクレル調査報告書と写真を提示し、インタービューに答えていました。
また、メクレルの証言では、キムイルソンは朝鮮国内では抗日戦争の英雄として知られていましたが人民が思っていた人物があまりにも若すぎ、当初は信用してもらえず、指導者として認知されるまでしばらくかかったそうです。