石油の歴史No21【レザ・パーレビのアングロ・ペルシャ国有化騒動】

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【ヨーロッパで起こるナショナリズム
1920年後半からヨーロッパやその他地域に政治的勢力が出現し、大手石油会社に政治的圧力をかけるようになります。

1930年代には、ヨーロッパの各国政府は自給自足主義と二国間相互主義を主張し、自国のカルテルに参加を求め、国内市場のシェアを国内会社と分け合うよう強要し始めました。

例えば、フランス政府は1928年の立法に基づいて、市場の一定のシェアを各会社に割り当てました。またナチス支配下のドイツは戦争に向けてあらゆる方面に規制をかけ運用を強制したのです。

大手石油会社はこのような大恐慌の後の各国政府の政治的介入をいかに阻止し、自衛するかが最重要課題であり、
アズ・イズ協定(現状維持協定)は石油の供給過剰や大恐慌後の対策も含まれていたが、政治勢力に対する対策のために作られたのでした。

ペルシャ国王レザ・パーレビのイギリスへの挑戦】

ロシア革命の影響とナショナリズムの高まるペルシャにイギリスは危機感をつのらせます。

1921年、イギリスが白羽の矢を立てたイラン・コサック旅団の大佐レザ・ハーンはペルシャ軍2500名を率いてクーデターを起こし、たちまち首都テヘランを占領し、政権を握りました。

そして、1925年レザ・ハーンは自らシャー(国王)を名乗り、パーレビ王朝を開きました。

ペルシャ共産主義化は防いだものの、イギリスの思惑は外れ、レザ・パーレビは専制君主の道を歩みだしたのです。

1929年世界大恐慌後にペルシャの利権料収入は激減し、ペルシャ側はアングロ・ペルシャに増額要求しますが、増額を渋り、時間稼ぎしていることにシャー(国王)レザ・パーレビは激怒します。

予てより、自国資源を支配しているアングロ・ペルシャに不満を抱いていたシャー(国王)レザ・パーレビは自分が会社を経営すると言い出したのです。

大手石油会社が恐れていた資源ナショナリズムの最悪のシナリオはアングロ・ペルシャに起こりました。

1932年11月16日の閣議でシャー(国王)レザ・パーレビはアングロ・ペルシャとの石油利権契約を一方的に破棄し、アングロ・ペルシャを国有化しようとしました。

アングロ・ペルシャのジョン・カドマンがイラン政府との協議に成功しなかったのは収入の多くが専制君主であるシャー(国王)レザ・パーレビ個人に入るようになっていたからです。

イギリスは国際連盟に提訴し、仲裁に入った国際連盟は国有化の一時棚上げをして、係争当事国に時間を与え
合意を模索させました。

1933年4月末、ようやく、新しい合意に達することができました。
アングロ・ペルシャの利権区域は四分の三に縮小、1トン当たり4シリングの固定利権料にさせられたため、ペルシャ側の収入は石油価格の変動から守られ、世界中から上がる同社の20%の利益を受け取るようになりました。

さらに、情勢の変動に関係なく、アングロ・ペルシャは毎年最低75万ポンドの支払いを保証させられたのでした。

アングロ・ペルシャは金額的に大きな犠牲を払いましたが、権益は守り抜き、1961年までだった契約期間を1993年まで延長させたのでした。

 

1935年 レザ・パーレビは国名をペルシャからイランに改称 しました。


【参考】
レザ・ハーンは参考文献により、レザ・カン、レザ・ハンと記述されており、「ハーン」はモンゴル帝国を建国したチンギス・ハーンの名前、ジンギスカンチンギス・カン)、チンギス・ハン、と同じ、北アジア中央アジア西アジア、南アジアの一帯で遊牧民などの君主や有力者が名乗る称号で国や時代によって呼び名や価値が変化しているようです。